Leben雑記
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2006年01月27日(金) 映画『バットマン』にみる相補性の基礎

 『バットマンビギンズ』見ました。おもしろかった。。
 ホントはいつもどおり独りよがりな文章だけを書いとこうかと思ったんだけど、それだけなのもなんなんで、普通の日記つきで。関係ないけど、今のBGMはスキマスイッチ。
 いや、やっぱバットマン、弱すぎw この弱さがいいよね。思わず「カッコ悪っ!」と突っ込みを入れてしまいたくなるほどの普通の人間っぷり。今回は設定がちょっと一番最初のバットマンの映画とは変えてあるので、これから書こうと思っている文章の説得力が半減してしまうのだけど(笑)。
 いちおう説明入れとくね。最初のバットマンでは、ジョーカーがまだ変な化粧をして犯罪を行なっていないころ――つまりまだ若いとき――に、主人公ブルースの両親を殺しているわけよ。つまり、バットマンにとってジョーカーこそが両親の敵ってワケだ。ここ重要。ちなみに、ビギンズでは、その部分の設定が変わってて、ジョーカーとは別にブルースの両親の敵役が登場してる。
 長くなりそ。

                           ※

 1989年12月公開の『バットマン』。意外に、ただの娯楽作品としてみている人が多かったせいか、主人公ブルース/バットマンとジョーカーとの相補的な関係に気づいている人は少ない。今回はこの関係を引き合いに出し、最も基本的な形の相補性とはどういった概念図式であるかを説明する。

第一の符合点
 相補性とはなにか。それは、端的にいって影響を与え合うということである。例えばその成因について。相補的な二つの概念にとっては、その概念の外縁を決めるのは、お互いの外縁に他ならない。換言すれば、片方の概念がもう片方の概念の意味すらも決定させる。その関係が両者に当てはまる。お互いがお互いを成立させるのだ。つまり、その成立において、二つの概念は同時に成立するのである。そうでなければ、上述の相補性の特徴は形成されない。
 思い出してみよう。ブルースはなぜバットマンとなって悪を裁くことを決意したか? それはジョーカー(まだ“ジョーカー”でない)によって両親を殺されたからである。そしてまた、なぜジョーカー(まだ“ジョーカー”でない)はジョーカーとなったのか? それはバットマンによって酸(だったか?)のタンクへと突き落とされ、顔が焼け爛れたために化粧を必要としたからである。
 つまり、ジョーカー(まだ“ジョーカー”でない)がブルースをバットマンにしたとき、自身がジョーカーとなることが運命付けられた、といえよう。無論、この作品は映画なので、この両者の成立には時間差があるが、運命付けられたという点を数学的な「展開」のようなものと考えれば、このとき確かに両者はお互いがお互いを同時に成立させたのだ。

第二の符合点
 相補性とは何か。それは、例えば互いが互いへと与える影響は、めぐりめぐって自身へと跳ね返るという特徴を持つ。なぜなら、第一の符合点で指摘したお互いの概念を成立させるということは、何も初期だけをさすわけではなく、お互いの作用があるからこそ、その状態を維させることができるからだ。すなわち、片方Aを成立させているのがもう片方Bの作用によるものなのだから、もしもAがBへとクリティカルな影響を及ぼすと、その影響はクリティカルなままAへと帰ってくるだろう。
 思い出してみよう。バットウイング(飛行機のこと)で大通りにいるジョーカーに向かって、バットマンが機銃を掃射する場面がある。このとき、バットウイングはなにやら最新鋭っぽい照準機を用いて完璧にジョーカーをロックオンしている。ところが、機銃の弾丸は一発もジョーカーを捉えない。逆に、バットウイングはその後ジョーカーが取り出した明らかに玩具のように見える鉄砲の弾たった一発で墜落してしまう。
 あるいはまた別の場面。ブルースはヒロイン役を演じたキム・ベイシンガー(役の名前忘れたw)と、酔ってイチャつきながらブルースの自宅の階段――見事な螺旋階段――を上っていくシーンがある。これは無論、ぶっちゃけて言えば暗にセックスを表現しているわけだが、このとき、キム・ベイシンガーは上る途中でヒールを片方落としてしまう。このシーンは映画後半で反復される。もう分かると思うが、無論、今度はジョーカーとキム・ベイシンガーが階段を上る。最後の決戦の場面となる古い教会(時計台?)の螺旋階段である。ジョーカーとキムは、キムがきちんと歩けないせいで、二人もつれるように階段を上っていく、と、途中でキムがヒールを片方落としてしまう。もちろん、映画的にキムはジョーカーが嫌いなので嫌がっているのだが、そのもつれる様はあたかも映画前半でブルースと一緒に階段を上ったときと同じようにさえ見える。
 これらの例から、つまり、両者は影響を与え合うが、まさにそれゆえ、両概念は類似しているとさえ言える。通常語られる相補性は、互いに反する二つの概念であるかのように語られるか、あるいは補うというその名のとおりほとんど同じようなものとして語られるが、それらはいずれも違う。正確には、性質がまったく違いながらも、その形式において両者は完全に一致するのである。

 結論。相補性とは、相反する二つの概念からなる一つの図式のことだ。相補的概念とは、その成立において、あるいは維持において、互いが互いを必要としており、片方だけで成り立つことはない。影の外縁に光が縁取るように、光の端に影がにじむように、両者は同時に姿を現す。対照可能な反対側の概念を持つことによって、もう片方は本来の意味を持つのである。これこそが相補性の本来の意味に他ならない。


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