Leben雑記
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2006年01月28日(土) 心の非論理性

 「理屈でものを考える人は冷たい」といった大衆的物言いの、論理的証明。あるいはまた、理屈に対する自己批判の精神。

 矛盾とは、相反する二つの事柄が同時に成り立つことを言う。このとき重要なのは、“同時に”ということだ。案外これを踏襲していないでものを考える人が多い。例えば「コーヒーが好き」といった直後に「コーヒーが好きじゃない」と言ったとしても、それは矛盾ではない。
 「矛盾した人だ」等々、矛盾という言葉を安易に使い、大衆を非難するエセ論理主義がいたりするが、これは止めておくことをお勧めする。単純に「主張が一貫しない」等々の言い回しをお勧めしておこう。なぜなら、たいていの場合、気の変わりやすい人をそのように呼んでいるからである。それは矛盾ではない。
 “日常生活において時間が存在しないことはない”。ということは、日常的に人間が表明するあらゆる言説は、矛盾に陥らない。さらに一歩踏み込んでこのように断言しよう。“人間の精神それ自体が矛盾に陥ることはありえない”。
 ただし、命題としての矛盾は存在する。というのは、相反する二つの命題を見たとき、それが矛盾であることを指摘することが人にはできる。しかし、己自身について、「コーヒーが好き」という気持ちと「コーヒーが好きじゃない」という気持ちを同時に成り立たせることはできない。絶対に、できない。しかし、こういうと、できたと主張するものも出てくるであろう。しかしそれはたいていの場合次の二つのいずれかである。すなわち、自身を外から眺めることに成功した(つまり自身を命題として扱った)か、あるいは、別々の性質について「好き」と「好きじゃない」と当てはめたかのいずれかである、換言すれば、例えばコーヒーという概念を分解し「その苦さは好きじゃない」が「その香りは好き」といった表明をする場合である。
 
 結論。感情や心の問題として、矛盾は不可能である。もしもあなたが誰かに矛盾している云々と言われたら、それは鼻で嗤ってよい。

 ただし発展的言及ポイント。これは明日に回そうか。
 同様の論理を使って、感情や心に論理的等号が成り立つこともありえない、あるいは、不等号が。すなわち、感情や心があらゆる意味で論理的であることはありえない。論理性とは外部の視点である。メタフィジカル。
 ……明日はボードでも行くかぁ!


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