Leben雑記
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2006年01月26日(木) |
韓国ドラマとパロディの問題 |
これも昔のメモ。この日記サイトはこういうメモをログとして残しておくためのものなので…。2005/07/17作成。
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韓国のドラマのなかで表現されるそのストレートな感情。日本的な、ポップな隠喩とパロディからなるようなドラマに飽きたと自ら言う人たちが少なからずいる。 「私たちのデカダンスや退廃を示しているものは、苦悩や孤独、罪責感、コミュニケーションのドラマ、すなわち内在性の一切の悲劇的なものを上演するその仕方、人々が必要を感じているその仕方です。」『ニーチェは、今日?』(ちくま学芸文庫、「ノマドの思考」、ドゥルーズ)
“隠喩やパロディは、克服されない”。 メルロォ・ポンティが言うように、ひとたび発見された哲学的命題は、いつまでも思考を拘束するだろう。 とすれば、私たちが今、日本の時代背景を生きてきた限りにおいて、われわれは常にパロディ化の流れから逃れられない。浅田彰が、たとえば大震災が起こったときに突如として現実を、つまりは真剣さを取り戻したといった風にボランティアに向かう若者を、無条件に賞賛することの危険性を述べていたことが思い出される。それ自体がまじめさという仮面ではないと、どうして言えよう? むしろ、それが仮面―つまりパロディだが―であることに対し意識的でないその切迫感が後に絶望へと、ニヒリズムへと変わらないとなぜ言えよう? ドゥルーズはだからこそ、退廃の背景にあるものはパロディなのではなく、その上演のされ方、パロディとしてのあり方にあると言う。 韓国ドラマ? 結構! それもまたいいだろう。しかし、忘れてはいけないのは、それが本物なのではないということだ。その真剣さは、ひとつの隠喩としてある。
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