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2006年11月03日(金)   みっともないほど、滑稽なほど

確かな言葉、或いは美しい言葉、感覚的な言葉、官能的な言葉、冷徹な言葉、理知的な言葉、なんでもいい、とにかく、はっとする、どきっとする言葉を綴る人が好きだ。私自身、常に表現を探し続けているけれど、正しく自分を表現できたためしなどないから、そのたった一言、たったひとつのフレーズにたどり着くまで、どんな苦労があったのかを想像するとなおさら愛しい(概して「良い表現」というのは探しあぐねた結果、ではなくふと直感的に思いついたものである場合が多い、というのも知ってはいるが、直感を働かせるにもやはりそれなりの素地が必要なのである)。

私は上述のような言葉で構成された文学を好むが、思想の言葉も同等に好む。それはたいてい海外から移植された言葉で、ぎこちなく、ねじれていて、こじれているが、明晰な思考の軌跡を辿るとき、その軌跡の尻尾でもいい、摑むことができたとき、空を舞っているような気分さえ味わう。

音楽は直接的だ。解釈の必要がない。身体全部を預けてしまえば良い。耳を通して、空気を伝って、音楽が浸透してくる。私はそこで解き放たれ、イマージュに満たされる。

映画は少し難しい。私は観ないときには一切観ない。2時間、或いは3時間、視覚、および聴覚は拘束を余儀なくされる。他人の物語に身体ごとはまり込む余裕があるとき、あるいははまり込んで自分を忘れたいとき、でなければ観ることができない。だからかなり慎重に作品を選ぶ。少数精鋭である。

絵画/写真。私には正直、手におえない。快いか、快くないか、その程度の判断しかできない。小説−たとえば『存在の耐えられない軽さ』−思想−たとえば『カイエ4』−音楽−たとえばLISA GERMANO−映画−たとえば『バルタザールどこへ行く』−で涙を流したことはあるが、絵画や写真を前にして陶然としたことはあっても泣いたことはない。もちろん、私にその手の感受性が欠如している、ということの証左以外のなにものでもない。いつかそういう作品に出会いたいと思う。出会ったときに素通りしてしまうような自分ではありたくないと思う。

舞台芸術に関しては何も書けない。鑑賞した数が少なすぎるから。だが身体を駆使することの素晴らしさは知っている。その難しさも。

あらゆることにたいして鈍感であってはならない。

己を開き、感じること。

みっともないほど、滑稽なほど、貪欲であること。

時折そんな懸命さをあざ笑おうとする自分が顔を出す。己の生活との乖離に冷笑が浮かび上がる。

それでも。

求めることを辞めてはならない。それはおそらく、精神の死を意味するであろうから。


nadja. |mailblog