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2006年09月07日(木)   ずれていくことば

わたくしの腫れ上がる器官は今朝、

鮮烈な血膿を噴き上げ

熱を、失っていった。

何もかもが、このようであるのかもしれない。

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「単義的であることは言語の<終局>である」(デリダ)

「ひとつの意味を持たないということはいかなる意味も持たないということである」(アリストテレス)

言語は解読を待つ傷痕である。

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膝が痛い、

と書いてみて、この痛みを伝えることは不可能だし、そう書くことが何を意図しているのかを正確に読み取れる人などまずいない。

ある人は「慣れない運動しすぎたからじゃないの」と思うだろうし、「太りすぎてて膝が体重支えきれないんじゃないの」と思うかもしれない、そんなことは人となりを知っている人ならありえないことくらいすぐ分かるだろうがそういう解釈だってありうるわけだ。

膝が痛い、

と書くことで、数日前に書いたものを読んでいる人は「足止めを食っているのだな」と連想するだろう。読み手の情報量は解釈の幅を左右する。さらに旅行の計画を知っている人なら「そんな足でいけるの」と思うだろう。さらに事情を知っている人ならもっとほかのことを思い浮かべるかもしれない。だがあえて私は意味を固定せず、

膝が痛い。

とピリオドを打つことでテクストを開放しようと思う。

貴方が、貴女が、たとえば冬の博物館や皇位継承問題やトマス・アクィナスやカイラッシュ山の頂上付近の天国的な光景やgenuine、という単語やアンナ・カレーニナや貨物船や砂の本を思い浮かべても、私はそれに一切関与しないし、できないし、するべきではない。

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批評理論、というものは、このように書き手にとったら単なる「いいかげんな話」「うさんくさい話」なのである。こちとら、伝えようとして、必死なのに。


nadja. |mailblog