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午後9時半を過ぎた頃、儀式ははじまる。 祭壇の上の黒い羊は、何枚かの書類に署名、捺印し、ずっとずっと首にかけられていた黒いストラップをはずす。牧場に入るためのセキュリティカードを返却する。慣れ親しんだヒツジたちが集まってくる。送別のための花束が手渡される。 長かった。本当に、本当に、いろんなことがあった。たしかに黒い羊はこの牧場で正確無比なタイピングを取得した、おそらくは電話応対に関してもかなりの饒舌さを身につけただろう、それでも、 たしかに女が言い放ったとおり、無駄でないことなど、何一つない。何もかもは、この牧場を出たならその瞬間に無に帰するだけだ。 失った、いろんなものを失った、黒い羊の視力は大幅に低下したし、身体中の筋という筋は単純作業の繰り返しによって傷んだし、不規則なシフト勤務のせいで体内時計は乱れに乱れて腸を病み、そしていつしか両耳の奥にはメニエールというやっかいな龍が棲みついて身体の均衡と聴力を奪っていった。手を伸ばせばそこにあったはずの結婚も、疲労を理由に黒い羊が身体の交わりを避けているうちに空中のパイになった。 けれどそんなものだ。女は正しい。無駄でないことなど、何一つないのだ。 黒い羊は微笑みさえたたえながら俯いた。想い残すことなど何もない。 ネズミ男は黒いストラップを失った黒い羊の細い首めがけて一気にナイフを振り下ろす。 斬首。 飛び散る鮮血。 暗転する世界。 羊はもういない。 |