月に舞う桜

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2006年09月17日(日) わかろうとすること その2

(昨日からの続き)

私は今、某企業の特例子会社に勤めている。特例子会社の詳しい説明は省くけれど、要するに企業が障害者法定雇用率を達成するため(=障害者を雇用するため)に作った子会社のことだ(障害者雇用の現状や問題点、法定雇用率、特例子会社などについては、ちょちょっと検索するといろいろ出てくるので、詳しく知りたい方は調べてみて下さい)。
そういう会社に入ると本当にいろいろな病気や障害を持った同僚がいて、症状や障害の内容・程度は人によって様々だ。薬を飲んでいる人もいれば飲んでいない人もいるし、私みたいな車椅子ユーザーもいれば半身麻痺の人もいるし、内部障害の人もいる。

そういった環境で半年近くやってきて改めて痛感したのは、同じ障害者だからと言って、相手の気持ちが分かると思ってはいけないということだ。
「他人の痛みや葛藤がよく分かる」というのは、最も危険な思い上がりだ。それは、他人を自分の狭い枠組みに押し込めて捉えることに他ならないのだから。
障害者と一口に括ってみても、個々人の生々しい感情や体験や身体状況は決して本当には分からない。「障害者」という立場はある人の一面に過ぎないけれど、その一面でさえ複雑な要素で成り立っている。
今の時代、たとえば脳性麻痺でも脊椎損傷でも他の難しい病名でも、ちょっとネットで検索すればある程度の情報はすぐに出てくるから、知ることは容易にできる。ただし、それは一般的な知識を得たというだけのことであって、それ自体とても意味のあることではあるけれども個々人の深いところまで分かるということではない。「知ること」と「分かること」は違うのだ。
障害の内容や程度、障害を持つに至った経緯(先天的なものか後天的なものか等)、自分の病気や障害をどのように受け止めているのか、その人が生きてきた歴史や環境、周囲の受け止め方、何より、その人の人生に対する価値観。そういうものが絡み合って個人は作られるのだし、背景となる事情は人それぞれに異なる。
だから、障害者という大きな括りでは同じでも、私に同僚たちの真の気持ちが分かるはずはない。「本当には分からない」とは、「生々しい体験をすることができない」ということだ。体の痛みや精神的なしんどさや、何を大変に思い、何を大したことではないと感じているのか、他人のそういったことを自分のこととして体験することはどうやったって不可能なのだ。

それはもちろん、障害者どうしに限ったことではなくて、女どうし、日本人どうし、同世代などでも同じことだ。人が皆唯一無二の存在である以上、他人を真に理解する、分かるなどということはあり得ないと私は思う。

けれども、私はこの「分からない」を否定的には考えていない。むしろ、「本当には分からない」と自覚することは「他人を深いところで理解しようとすること」のスタートラインであって、そこからしか真の理解は始まらないとさえ思っている。
他人の本当の思いは分からない。「でも」ではなくて、「だからこそ」他人を理解したいと思うし、そのために耳を澄ませたいと思う。
自覚するとは、謙虚になること、他人を自分の思考の枠組みに押し込めないこと、自分の狭い世界を超えるものとして他人を見ることだ。
他人とは、端から自分の理解を超えた存在だ。それを分かっていないと、「自分には理解不能な人間=異常な存在」として排除することになりかねない。

少し前、中学生や高校生が実の親を殺害する事件が相次いだ。それらの事件を扱ったニュースを見ていると、「なぜ親を殺してしまうのか分からない」と言う人間がキャスターやコメンテーターの中に必ずいる。私にはその発言や口調が本質的な「分からない」を意味するのではなく、分かろうとする努力を単に惜しんでいるだけとしか聞こえないことが多い。当惑を出発点として子どもたちを理解しようとするのではなく、理解できない存在を排除しようとしているだけのように聞こえてしまう。
例えば、親を殺した子供が警察で「勉強しろとうるさく言われるのが嫌だった」とか「成績が伸びないことをなじられた」と話している、という情報が入る。言葉の表面だけを見れば、確かに「そんなことくらいで、なぜ?」だろう。
でも、ちょっと想像力を働かせれば、言葉の奥深くにあるものが見えるのだ。自分の存在を否定されたと感じてしまうこと、そのときの重く暗くどうにもできない気持ち、苦しさ、形容しがたい感情の塊。それぐらいは、理解しようと思えばすぐに想像できるのに。

ただでさえ他人は理解できない。その上、言葉の表面だけを見ているようじゃ、もっともっと他人は遠退いて行く。
深いところで人と関わるのは、確かに途方もないエネルギーが必要だけれど。


桜井弓月 |TwitterFacebook


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