月に舞う桜
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| 2006年09月16日(土) |
わかろうとすること その1 |
夏にメンバーズカードを作った洋服店から、リニューアルオープンセールのハガキが来ていた。今すぐ新しい洋服がほしいわけではなかったけれど、せっかくの3連休だしと思って出掛けることにした。 横浜駅周辺は、いつにも増して人が多いような気がした。でも、あそこはいつだって人が溢れていて、休日ならあれくらいが普通だったかもしれない。人ごみに怯まず突き進んで行くだけのエネルギーが今日の私には不足していたようだから、「いつにも増して」なんて感じたのだろう。 行き交う女の人たちは皆、すっかり秋色のコーディネートで、それが私をちょっぴり焦らせた。自分だけが季節について行っていない感じがした。 目的のお店を含めて何軒か回ったけれど、どのお店でもこれと言ってピンと来るものがなく、何よりどこも人がいっぱいで、ピンと来るものに出会えるほどゆっくり見られないのだ。そして、人をかき分けてゆっくり洋服を見るだけのエネルギーが、やはり私にはなかった。 洋服以外にも見たいものはいくつかあったけれど、混み合うエレベーターを待ってまであちこち行く気になれなかったので、今日は早々に引き上げることにした。 結局、何をしに横浜まで行ったのか分からない結果になってしまった。 でも、たぶん私には「出掛ける」ということが必要だったのだと思う。外出は、日々の中で固まってしまった円から抜け出すことだ。
電車の中で、よしもとばななの『ハゴロモ』を読んでいた。私の好みが変わってきたのか彼女の小説の色が少しずつ変わってきたのかは分からないけれど(おそらく、どちらでもあるのだろう)、以前ほどその小説の世界にどっぷり浸かることはなくなった(だいたい、私はオカルトとかスピリチュアルとかニューエイジとかいった言葉が苦手なのだ)。それでも、よしもとばななの小説はいつでも、私に「人と深いところで精神的に関わること」について考えさせる。そこが好きで、読み続けているのだろう。死を始めとする何か決定的な消失と、そこからの再生、それらを巡る真摯さ。
深いところまできちんと見つめて他人と関わるのは本当に難しい。それは、他人を理解すること、あるいは「理解できないこと」をどう受け止めるかという問題と繋がっているように思う。最近、いろいろと思うところがあって、そういった難しさについて考えてみたりする。
(続く)
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