月に舞う桜
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久しぶりに「これは!」と思える小説に出会った。 オムニバス小説『いじめの時間』に収録されている、湯本香樹実の『リターン・マッチ』。 読後、どうか主人公が少しでも救いのある道を歩めるようにと願った。少しでも幸せであるようにと。そんな気持ちになるのは、物語が私にとって真に意味あるものとなった証なのだ。どうでもいい小説は、読んだそばから頭の中をさらりと通り過ぎていく。 「こんな小説があるんだから、私なんてもう何も書かなくていいんじゃないか」という気持ちが半分ありつつ、もう半分は「私もこういう小説を書きたい!」という強い欲求。心の奥深くに突き刺さるものと出会ったときは、いつもこの相反する二つの思いが生まれる。
親子関係という、最も基本的な人間関係であるがゆえに歪みや呪縛が生じやすい難関。もがいてもがいて、たとえ大きな犠牲を払ってでも呪縛から抜け出ようとする子どもの姿。「親殺し」の儀式は、本来、正常な関係であれば夢の中での殺人や日々の中での緩やかな反抗・自立という健全な形で行われるから、精神的なレベルで終わる。けれども、あまりに歪みが大きいと、物理的な親殺しをしなければ乗り越えられないのかもしれない(少なくとも、「そうしなければ越えられない」という思いに囚われる状態は想像できる)。 私は、そうやってもがく「子ども」を、どんな手段であれ自分の力で解き放たれてゆく「子ども」を、いつか書きたいのだ。
最近よく頭の中に浮かぶイメージがある。 それは、一つの円。そして、その円に切れ目が入る瞬間。 人生がうまく行っていないとき、その人生は一つの完全な円の中にある。出口がどこにも見つからないので、同じ場所をぐるぐる彷徨っているしかない。 小説もカウンセリングも大切な人たちの何気ない言葉も、この頑丈な円に小さな切れ目を入れるものだと思う。円に切れ目ができることによって、そこから新しい可能性や一筋の光や新鮮な風がもたらされる。そうして、人はまた生きていく。 私は結局のところ、何かしらの形で円に穴を穿つことのできる人間になりたいのかもしれない。物書きでも、カウンセラーでもいいから。
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