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あなたがくれたものはわたしのすべてで
忙しかった。 乱菊は執務机に突っ伏して大きく息を吐いた。 実のところ忙しいのは続行中なのだが、あと一山乗り越えれば終了、というところなので気持ちは楽になっている。朝一で報告書を提出してきて関係書類をまとめて束ねて棚に片付けて管理帳に管理番号諸々を記入して不要な書類その他を全て処分してこの件は全て終了、というところだ。乱菊は肺の底から息を吐く。そして思い切り息を吸い込み、背筋を伸ばした。三日間の徹夜は辛いが、あと一山だ。それに今夜は家に帰れる。ゆっくり風呂に浸かりたい。乱菊はしみじみ思う。この数日間は隊舎備え付けの湯殿で行水のようにして汚れを落としただけなのだ。この一月、帰宅できた日でも寝る時間を確保するためにゆっくり浸かってなどいられなかったが、行水よりずっといい。温泉なんて贅沢は言わない。共同の巨大銭湯なんて贅沢も言わない。家の風呂でいいからゆっくりのんびり浸かってふやけたい。そして布団で寝たい。寝る時間が短くてもいいから布団で寝たい。 よし、それを目標にして今日を乗り切ろう。 乱菊は引き出しから資料の束を取り出す。ざっと目を通し、この件を担当している席官達と話そうと席を立った、ところで乱菊は顔を扉に向けた。 扉が開いて、日番谷が入ってきた。 「お疲れ様です。隊長」 乱菊が一礼して微笑む。日番谷はうん、と頷いて乱菊の顔を見て、常に顰めている顔をさらに顰める。 「寝たのか」 「はい、大丈夫です。お茶をいれましょう」 「いいから仕事していろ。お茶は腹が膨れるほど飲んできた」 眉間にしわを寄せたまま日番谷は書類を机に放り投げる。そして手にしていた風呂敷包みを乱菊の机に置いた。 「渡された。余った菓子だ」 「まあ、なら、やっぱりお茶がほしいですね」 朝から一番隊で会議だった日番谷には、おそらくお茶やら茶菓子やらが山のように出されたのだろう。会議というには儀礼的なものなのだが、日番谷が赴く場合は単にお茶会になるらしい。想像して思わず笑みを浮かべる乱菊に、日番谷が不機嫌になる。 「……まあ、適当に皆で食え。今日は早めに帰れよ……誕生日なんだろうが」 「はい、そうします。ありがとうございます」 乱菊は風呂敷包みを手に、席官達の部屋へ向かう。おそらく、日番谷は早めに帰してくれようとするだろう。忙しくても、仕事があっても、今日くらいは帰れと夕方くらいに言ってくれるだろう。 嬉しいな。ふふ、と乱菊は笑い、扉の前で少しだけ顔を曇らせる。早めに帰って、風呂にゆっくり浸かって、布団で寝る。それだけしかできないだろう。 仕方ない。
この間のギンの誕生日には会うことなど叶わなかった。その頃も席官達と徹夜続きで、早朝に抜け出して玄関前に置いてくることすらできなかった。早めに贈り物を購入しておいてよかった、と乱菊は思う。行きつけの店でギンが小筆を買いにきていること、でも売り切れていて買えなかったことを聞いてその場で買っておいたのだ。 もしかしたらそのあとにギンが自分で買ってしまっていたかもしれないけれど。そう考えると乱菊は自然に困った顔になってしまう。そうかもしれないけれど、今のギンの日々を乱菊は知らないから、ただ想いを伝えるためだけに贈るしかない。 見える形で。 もう、お互いの見えない想いを確認することなどできないから、乱菊はただ示すしかない。
行く先々で乱菊はお祝いを受け取った。言葉だったり、物だったりで乱菊はそのたびに嬉しくそれらを受け取る。雛森はわざわざ執務室まで来てくれた。甘い菓子と御香で、忙しいときにはこれですよ、と乱菊に渡すと、今日はゆっくり休んでくださいね、とすぐに帰った。やちるには会えなかったが、いつのまにか机の上に金平糖が置いてあった。七緒からは伝令神機に<素敵なお店を見つけました。いろいろ終わったら女性死神協会の面々で行きましょう>と入っていた。勇音は四番隊で会ったときにお手製の入浴剤を渡してくれた。二番隊へ書類を届けに行ったときには砕蜂が肩こりを一発で治してくれた(殺されるかと一瞬思うくらいに痛かったが)。執務室に戻ると、ネムから怪しげな液体が入った小瓶が贈られていた。 嬉しい。乱菊は笑う。 嬉しい。本当に嬉しい。 そしてほんの少しだけ寂しく思う自分を、奥へ奥へを追いやる。 これだけの日々を与えられておいて、それ以上何を求めるというのだろう。 この日々を、世界をもらっているのに。 でも、だからこそ寂しいのだ。 会えないことに。言葉を交わせないことに。
世界を与えてくれた、その喜びと感謝を伝えたいのに。 あなたに会えた喜びと感謝を伝えたいのに。
「もう、帰れ。もう今日やっても明日やっても同じだろう。今日くらい帰れ」 日も暮れた頃に、日番谷がそう言った。やっぱり、と乱菊はひっそり笑う。 「ありがとうございます。お言葉に甘えて帰ります」 「そうしろ」 乱菊が執務室を出るまで日番谷はしかめっ面のままで、それがおかしくて乱菊は隊舎を出たところでくすくすと笑う。そして、おいしいお酒でも買って帰ろうかと考えながら通りを歩きだした。 そこで、人影に気づいた。 「……市丸隊長、お疲れ様です。」 ギンが、風呂敷包みを手に向こうから歩いてきていた。歩みにあわせてカチカチと硝子のぶつかる音が微かにする。 「今、帰り? お疲れさん。十番隊副隊長さん」 人の往来がある通りだ。向かい合って立ち止り、乱菊は完璧に微笑んで会釈してみせた。ギンもいつも通りの薄っぺらな笑みを浮かべている。 「隊長さんは、まだ、いてはる?」 「はい、執務室に」 乱菊が先に立とうとすると、ギンは手をひらひらと振った。 「ええよ。副隊長さんはもう帰り。忙しいんやから帰れるときに帰らんとあかん」 薄い笑みの奥で、ギンが柔らかい目をしている。 「徹夜とかしてはるんやろ。今日くらいゆっくり眠らんとあかん」 二人の周りを死神達が頭を下げて通り過ぎる。それに軽く答えつつ、乱菊はギンを見上げていた。普段通りの声と仕草の奥に、ほんの僅かに、気遣わしげな気配があった。幼いころには直接示されていたギンの感情。乱菊が熱を出したり怪我をしたときの、懐かしい気配。 「……では、お言葉に甘えて」 乱菊がそう答えて微笑むと、ギンがほうっと息を吐いた。 「これ、お裾分けで持ってきたんや」 包みから瓶を取り出し、ギンが乱菊に差し出した。たぷんと音がする。 「梅酒」 「お手製ですか」 「初めてなんやけどな、なかなか良い出来やねん。何本もあるから、一本持って帰り」 「吉良から聞いていましたけど、本当に作られていたんですね」 「庭の梅に実がなっているんやもん」 たぷん、と手の中で音がする。 乱菊は微笑んだ。 「ごちそうさまです。いただきます」 「感想きかせてや」 ギンも小さく、柔らかに笑う。そして声を落として、 「この間、筆ありがとうなあ……おめでとうなあ」 と囁いた。 乱菊は首を振る。 「いいえ、こちらこそ」 見つめたまま、答える。 「本当にありがとうございます」 ギンは無言で、ただ笑う。 「……気ぃつけて帰り。よう寝るんやで。お疲れさん」 「はい、失礼致します」 ギンがくるりと背を向けて、手をひらひら振って門をくぐっていく。その背が扉の奥に消えるまで見送り、乱菊は一礼し、瓶を抱えて通りを歩きだす。たぷん、たぷんと一歩のたびに腕の中で音がして、乱菊は瓶の口にそっと頬を寄せた。
ちょっと早いのですが、2010年乱菊さん誕生祝いです。
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