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きみが泣かないことを願うよりも
昼とも夜ともつかない薄明るい空の下、ギンは一人、岩場を歩いている。 しばらく歩くと、ようやく喧噪から離れる。藍染の研究が終わりをむかえ、他の者達は皆、それに群がっている。その空気に耐えかねて、ギンはそっとそこから抜け出して歩いていた。どこか湿った、重く温い空気がゆるりと動く。ここには時の流れというものがないのか、季節も、昼夜の区別も定かではない。 「つまらんなあ」 小さく呟いて、ギンは地面に直接座り込むとなだらかな岩にもたれる。そうして上を見上げても、そこは乳白色のはっきりとしない空しかない。 岩に体を預けると、どこかに潜んでいた疲れが顔を出す。眠気が瞼におりてきて、ギンは素直に目を閉じた。 ここでは微睡むことしかできない。 しかし、ギンは深く眠ることもそうなかったし、深く眠ることを恐れていたから構わなかった。深い眠りの底で何を口走るか分からない。常に働いている警戒心が、ギンを眠りの底までは沈ませなかった。 それに。 ギンは微睡みを感じてわずかに笑みを浮かべる。 夢現の狭間の微睡みはもう今は遠い人を見せてくれるから、ギンは気配に耳を澄ませながらもゆるゆると微睡みに落ちていく。
瞼の裏にちらちらと浮かんでは消えていた光が、しだいに風景を映し出す。
乾いた草原と、点在する森。青い空。 横の崩れそうな小屋の入口でまだ幼い乱菊が座り込んで草履を作っている。山吹色の髪はまだ肩の上で揺れていて、太陽の光を反射して煌めいている。ギンは横に座った。乱菊の、小さな、けれど細い指が丁寧に刈り取って干した草を編んでいる。乱菊の横には血に汚れて鼻緒のとれた草履が転がっていた。 「もう少しで新しいのができるから。あんたは傷を洗ってらっしゃい」 そう言われて自分の腕を見ると、斬られた傷があった。足をみると小指の爪が剥がれている。 ええよ。痛ない。ここにおる。 まだ高い声で、ギンが言うと乱菊は眉を寄せて振り向いた。 「見てるあたしが痛いわ。ごめんね、ギン。あたしを庇ったから」 謝ることあらへん。ボクがそうしたいんや。 「……ギン、あたしのことは気にしないで」 乱菊は呟くように言う。そういえば、よく言われたように思う言葉。 「大人相手なら、あたしは殺されそうになることはそうないから。だからまず自分を守って。あたしは大丈夫なのよ」 ギンは顔をしかめた。こう言われるたびに顔をしかめたことをギンは思い出す。ギンは乱菊の言っていることの意味が分かっていて、だから余計に気にした。 きれいな少女だった乱菊は、すぐに殺されるようなことにはならなかった。襲ってきた人間はほとんどが男で、彼らは一様に乱菊を嬲ることを考えるから。 全然、あかん。大丈夫やないわ。 ギンは乱菊の目を見てはっきりと言う。 ボク、絶対に嫌や。潰されんでも何でも、乱菊が怪我負うのもむかつくことされるんも嫌なことおうて泣くのも全部嫌やからな。 「でもね、ギン。殺されさえしなければどうにかなることも多いと思うのよ」 ギンの言葉に嬉しそうに微笑みながらも、乱菊は静かに言った。 「どんなに酷い目にあっても、それで心が潰されても、それでも死んでなければいつか何とかなるんじゃないかなって」 だってあたしはあんたに会えたもの。そう小さく呟いて、乱菊はきれいに笑った。 鈍い音がした。 乱菊の額に赤い血が流れる。 周囲は真っ暗な夜中の道で、闇を凝らした黒い男達の低い声が何かうるさく喚いていた。暗闇の中、乱菊がゆっくりとゆっくりと崩れ落ちていくのが見えた。ギンはただ呆然と眺めていた。 ……らんぎく? 乱菊は何も言わずに地面に倒れ伏した。側頭部から血が流れ出している。血が額を流れ落ち、地面に染み込まずにゆるゆると広がっていく。 らん、ぎく? 乱菊は動かない。 ギンの全身がすうと冷えた。 ら、ん、ぎく? 乱菊はぴくりとも動かない。ギンは幼い手を握りしめると目の前の黒い男達を睨みつけた。握り拳に巻き付くように風のような霊力がぎゅるぎゅるとねじれた音をたてて集まり、すぐに巨大な力の塊になる。その大きさに男達は一歩下がった。 潰すぞ。 ギンの口に薄い、三日月よりも薄いうすい笑みが浮かんだ。 手を勢いよく水を払うように横に振ると、ギンの腕に巻き付いていた霊力がかまいたちのような勢いで男達に襲いかかった。男達は血を噴き上げながら飛ばされて、地面を滑るように転がる。ギンは即座に刀を抜いた。 「いったあっ」 急に乱菊が起きあがった。 「痛っ、あたし気を失ってた? あ、あれ、やだあ、なにこれ、すっごい血が流れてる」 呆気にとられているギンを気にすることなく、乱菊は自分の顔面を流れる血を拭っては手にべとりとつく血を見て驚いたり傷口に触れては驚いたりしている。 「頭って切るとホントによく血が流れるのねえ。傷口はあまり大きくないみたいなのに。あー、油断した。まさか気絶するとは思わなかった。ごめんね、ギン。あいつらは?」 血塗れの顔で微笑まれ、ギンは唖然としたまま、倒れている男達を指さした。男達は動けないのかうめき声を上げて転がっている。それを見て乱菊はほっとしたように息をつくと、ギンに血塗れの手を伸ばした。 「起こして」 あ、はあ…うん、……平気なん? 「うん、大袈裟に血が出てるだけよ。さっさと逃げるわよ」 ギンが手を取って引っ張ると、乱菊は立ち上がって平然と、着物に付いた埃を払っている。ギンは懐から手拭いを取り出すと、とりあえず傷口を押さえるようにして乱菊の頭に巻き付けた。 「ありがとう」 乱菊が柔らかく微笑む。ギンはようやく安堵がじわじわと沸き上がってきたのを感じた。どう堪えても目の奥がしみて、ギンは誤魔化すようにへらりと笑った。 乱菊、血塗れで笑うとえらく怖いわ。 即座に乱菊はギンを殴った。そして睨み付けるようにすると、ふっと目を細め、 「大丈夫よ、ギン。生きてるでしょ。傷もそのうちに消えるわ」 と血塗れのまま笑った。夜風が吹いて山吹色の髪を揺らした。乱菊の顔が一瞬隠れた。 「ほら、もう傷はないでしょ」 夕焼けの暖かい茜色に染まった乱菊が俯いて、髪を持ち上げて傷口を見せている。傷は消えかかっていて、乱菊が手を下ろすと髪に隠れて全く見えなくなった。肩の下あたりまで伸びた髪が揺れる。学院の白い制服に橙色の光がこぼれ落ちる。顔を上げた乱菊は、大人に近づいた顔をしていた。 きれいに消えるもんやなあ。 低くなった声でギンは感心したように呟いた。そして揺れる乱菊の髪に手を伸ばす。その手も、大きく、骨張っていた。 「あんただって、傷はそんなに残っていないでしょ」 足をぶらぶらさせて、乱菊は微笑んだ。そしてわずかにギンに体を寄せる。幹にもたれていたギンは身を引くことなく、ただそっと乱菊の頭に額をあてた。 ボクんこと、ほんまに怖ない? 「怖くないわよ」 怒っとらんの? 「怒ってもないわよ」 傷つけたやろ? ボク。 「傷ついてないとは言わないけど、でもね、ギン。あたしは笑っているでしょう? 傷ついても、時間が経てば笑えるものなのよ」 ギンが顔を上げると、鴉色の装束を着た乱菊がのぞき込んでいた。大人の顔をして、大人の目をして、そしてひっそりと笑みを浮かべた。 「時間が経てば、笑えるようになるものよね、本当に」 乱菊の髪から線香の匂いがかすかにした。ああ、命日だ、とギンは思い出す。 お墓参り、してきたんやね。 ギンの言葉に、乱菊は頷いた。誰の気配もない薄暗い資料室の棚の影で二人は隠れるように身を縮こまらせて、だからお互いの顔がとても近かった。乱菊の少し哀しげな、けれどもうすっきりと澄み切った薄い青灰色の目をギンは見つめる。 「やっと、笑って思い出せるようになったわ」 よう泣いとったもんなあ。 「しょうがないでしょ」 乱菊は小さく笑った。 「でも笑えるようになるものなのよ。生きてさえいれば」 光の塊が爆音を響かせてギンに落ちてきた。その光が乱菊とギンを隔てる。乱菊は呆然として空に浮かぶギンを見上げている。隔絶する光があまりに強すぎてギンは乱菊の姿に目を凝らす。 乱菊の気配が微かになった。ギンは慌てて手を伸ばす。山吹色の暖かな光だけがちらちらと遠くに瞬いている。手を伸ばしても届かない。 らんぎく。 声を出して呼ぼうとして、ギンは跳ね起きた。
薄明るい岩場にギンはいた。温い風がギンの頬を撫でた。 ときどき浅く目覚めながら断片的な夢をみていたような気がする。ギンは目を瞬かせて、そして思い出したように目を見開いた。 周囲には誰もいない。しかしギンは慌てたように見渡す。そして、目を閉じると耳を澄ませた。 懐かしい気配が遠くにちらちらと瞬いている。確かに。本当に微かだけれど。 「……現世に来たんや…………」 ギンは眉を寄せた。先日、ウルキオラが報告してきた一件で一部の虚が不穏な動きをしていることにギンは気付いていた。乱菊の実力では相手によっては厳しいかもしれない。そこまで考えて、ギンは嘲るような笑みを浮かべた。 「今は何できるいうんや……今はあかん。まだ……あかん」 ギンは自分に言い聞かせるように、低い声で呟く。膝を曲げると、両膝に肘をのせて手で頭を抱えた。こうして目を閉じると、ギンは再び現世の方に耳を澄ます。かすかな、ちらちらと遠くにまたたく星のように乱菊の気配がする。今はまだ、感じられる。 「乱菊」 小さく小さく、ギンは呼ぶ。 生きていてくれと思う。 生きていてくれさえすればいいと、それだけでいいと思う。もう、今の自分では願うことも祈ることも許されないだろうから、ただギンは乱菊の名を繰り返して呼ぶ。 たとえ泣いてもかまわない。怪我を負って体に傷が付いても、大切なものを失って心に傷がついても。負けて、嘲笑われて、誇りを失っても、それでもかまわない。 生きていてくれればいい。 生きていれば、そうすればきっといつか、笑える日がくる。傷が塞がる日がくる。誇りを取り戻す日がくる。生きていればいい。死んでしまっては泣くことすらできない。 「乱菊」 生きていてくれればいい。 乱菊が生き残るためならどんな卑怯なことでもする。どんな非道なことでも、凄惨なことでもしてみせる。自分には誇りなどない。信念もない。ただ一つしか、もう残されていない。 「乱菊」 もし自分が間に合わず、乱菊が殺されたらどうするだろう。そう考えて頭を振ると、ギンは両手を祈るときのように組み合わせて、額にあてた。自嘲の笑みが浮かぶけれど、それでもギンにはそうすることしかできなかった。
『冬の花火〜ギン乱バイブル発売記念祭〜』に参加したものです。その後、本誌の方で、虚圏に月があったり夜空があったりして、おいおいおいということになりましたが、まあ気にしているとどうにも止まらなくなるので気にしないことにしています。 さて、一応、言い訳のようなものですが。市丸さんは決して乱菊さんが傷つくことを望んでいるわけではありません。認めているわけでもありません。ですが、この状況下で傷つかないように願うことは、それは許されないだろうと思っている、とは思います。戦いが始まるのに、まあ傷つかない方が難しそうですし。 ただ、傷ついても、いつか、いつか、生きていればいつか笑える日がくる、と思うのです。そう思わなければやっていられない、ということもあるかもしれません。でも本当に、死んでしまってはどうにもならない。この考え方は受け付けない方もおられると思います。ただ、私はそう思っていますし、そう思うからこそ、市丸さんはあの状況下でどうにか(何を考えているかは知らないけど)やっていけるのかとも思います。
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