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08 がらくた
マユリは必ずネムを直す……治す。 阿近はその迷いのない手つきを横目で見やり、指示された自分の担当箇所に目を向ける。踏みにじられた右肩の傷。再生しきれない筋肉組織を剥がし、そこへ丁寧に新しい組織を乗せていく。この作業は目を瞑って出来るだろうと思えるほどに慣れた。その横でマユリは指へと繋がる細い細い神経繊維を慎重につなげている。 マユリは、ネムの高度な技術を要する補修については必ず自らの手で行った。その傷をたとえ自分が作ったのだとしても、神経質に動く細長い指によって傷は治され、次の日までには完全に消えている。そして新たに、その治した手によって傷がつくのだ。 「そっちは終えたのかネ」 マユリが顔を上げた。阿近は頷くと、皮膚を乗せた箇所を見せる。それを見て、更に眼を近づけて確認するとマユリは満足げに頷いた。 「ネム」 「はい、マユリ様」 横たわって無表情に天井を見ていたネムが、顔をマユリへ向けた。 「右手を動かしてごらん。痛覚は麻痺させてあるから動かすことに支障はないハズだヨ」 言われたとおり、ネムはまだ皮膚を乗せていない指を動かした。握っては開くその指を見て、マユリは制止の言葉を告げる。 「よし、神経は正常に繋がったようだネ。あとは皮膚を被せるだけだヨ。ネム、あとは阿近にやってもらえ。私は十二番隊の方に行かなければならないからネ」 「はい、マユリ様。お手数をおかけしました」 「全くダヨ。阿近、あとはお前に任せる。最終の動作確認までしておくように」 自分を振り返ったマユリに、阿近は軽く頷いた。 「わかりました」 頷いて、マユリは羽織を翻して施術室を出ていく。 「ありがとうございました。マユリ様」 ネムが小さな声でその背に呟いた。乱暴に扉が閉められた。
阿近は白い白い、透けるような皮膚を丁寧にネムの右手に乗せていく。手、特に指の皮膚は接合が面倒で、阿近は息を詰めて作業を行っていた。 ネムは寝台の上で横たわり、薄布一枚を身体にかけただけの姿で身動ぎ一つせずにいる。細い肩と右腕だけが露わで、他の部位は全て薄青の薄布に覆われている。柔らかな胸は重力で両脇に広がりながらもなだらかな隆起を示し、呼吸によりわずかに上下している。薄布は忠実にその曲線を覆う。曲線は下腹までは僅かに凹み、下腹と足の付け根で僅かに盛り上がる。その全てが薄青い布に覆われている。 筋肉が薄くのった右腕だけが阿近に伸ばされている。その先端の右手に被さるようにして作業をする阿近は、ときどき、ふと我に返って自分の姿に笑みを浮かべた。まるで女神だか女王にでもかしずく下僕のようだと、阿近は声もなく笑う。 ネムが顔を阿近に向けた。 「どうか、なさいましたか」 「いや、なんでも」 顔も上げずに阿近は答える。目の前の接合に集中していると、急に喉に渇きを覚える。煙草を吸いてえな。そんなことをぼんやりと思う。濃いコーヒーでもいい。何かで、この集中しすぎてどこかぼやけた感じを払拭したいと阿近は感じる。言葉にして具体的には思わない。ただ感覚で、何か刺激を求めている。求めているのに、指先も眼も脳も、集中を途切れさせない。ピンセットの先に摘んだ針で、丁寧に皮膚を縫い合わせていく。 だから全てを縫い終えたとき、阿近は大きくおおきく息を吐いた。急に眼と肩に疲れを感じる。手袋を外して眉間を揉むと、阿近は寝台を見下ろした。 ネムがじっと見上げていた。 「終わりましたよ、ネムさん」 「……ありがとうございました。お手数をおかけして申し訳ありません」 およそ感情が窺えない声でそう言い、ネムは天井に眼を向ける。その顔はひどく無機質で、生気が感じられない。相変わらず人形のようだ。阿近は思う。 「もうしばらく」 阿近の声にネムが再び顔を向けた。その頬に手を伸ばしそうになって、阿近はその手を白衣のポケットに突っ込んだ。 「……そうですね、数刻したら接合部もほとんどきれいになりますし、その頃には麻痺もとれます。そうしたら動作確認をしますんで」 「わかりました。よろしくお願いします」 ネムの返事を確認して、阿近は扉を、マユリが出ていった扉の反対側にある扉を開けた。その奥には薄暗い小部屋がある。換気用の小さな窓一つしかないその部屋は、治療を終えたあとのネムが休息する為の寝台が一つ、置かれている。施術後、すぐに仕事に戻ろうとするネムを休ませるために阿近が準備したものだ。怪我の回復を早めるため、ということは黙ったまま、阿近はただ、動作確認などを行うのだから施術室で休んでいてくれた方が都合がいい、とマユリに述べた。それにマユリも納得し、この小部屋が与えられている。 阿近は扉を開けたまま、ネムが横たわっている施術用の寝台の脚先にある車のロックを外し、ごろごろと寝台ごとネムを小部屋へ連れて行く。そして、血と液体でうっすらと汚れた薄布を取り払い、肩の傷に触れないようにそっと、露わになった裸体のネムを抱き上げようと手を伸ばした。 ひたり、とネムの二の腕と太腿の肌が阿近の手のひらに接する。 抱き上げるとその体はいつも通りに軽い。ネムの小さな頭は阿近によせられ、その微かな重みが胸にかかる。 幾度となく繰り返された行為で、阿近はその度に、マユリは不必要なほどのきれいな体を造り出したものだと思う。ネムの肌はきめ細かいためか、阿近は肌が手のひらに吸い付くように感じる。ネムの裸体を裸で抱きしめたら、ひたりと吸い付いて皮膚が一緒になってしまうのではないかと阿近は思い、そして苦く笑う。阿近に肉欲はない。ただ単純に、美しいものを造り出す、その傍らにいてその手伝いをしたそのことを喜ばしく思うだけで、その喜びに苦いものが沸き上がるだけだ。 眠る為の寝台にネムを横たえ、阿近は結ってあるネムの髪をほどいた。ぱらぱらと赤黒い粉が剥がれ落ちて白い敷布に散らばる。ネムの血で汚れた髪は、傷の再生が終了するまで洗ってやれない。阿近は小さく溜息をついて、変に硬く固まっている黒髪を邪魔にならないように枕の上に流し、敷布を手で払った。 ふいに、ネムが傷のない方の手を阿近の胸に伸ばした。 ネムの手は埃を払うように動かされた。阿近は自分の胸を見る。白衣の上に細かな赤黒い粉がついていて、ネムの手はそれを払っていた。 阿近は小さく、溜息をついてその小さな手を握る。 「申し訳ありません」 淡々とした、しかし呟くような小さな声でネムは言った。阿近は手を握ったまま、首を横に振る。 「いいんです。あんたは気にしないでいいんです。こんなこと、気にするようなことじゃあない」 「でも、白衣を汚してしまいました」 「白衣は汚れるためにあるんでしょうが。それにこれは、汚れですらない。乾いていて払えば落ちるんですから」 そう言って阿近はネムの手を戻し、自分の手で乱暴に血の粉を払い落とす。そして足下に畳んである清潔な布と毛布をネムに被せた。 「いつも、ありがとうございます」 「……いいから、よく寝てください。それが今のあんたの仕事です。あとで、起こしにきます。傷がきれいに塞がって、動作に支障がなかったら風呂に入っていいですから」 「はい。よろしくお願いします」 阿近の言葉に忠実に、ネムは硝子玉のような大きな眼を閉じる。それを見下ろして、阿近は背を向けた。手のひらには抱き上げたときの滑らかな肌の感触が残っている。それを消すかのように手のひらを白衣でぬぐい、阿近は小部屋の扉を閉じた。
オチはありません。思い浮かんだだけのお話。
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