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地上の縁からのぞき込むと深遠の青が底もなく 15
しばらく、二人は何も言わず、動きもしなかった。乱菊は門が消えたあたりをぼんやりと眺めている。風が吹いた。ギンは、乱菊の腰まで伸びた山吹色の髪が背中で揺れるのを見ていた。血の染みた地面に光がこぼれ落ちる。 空は良く晴れていて、冬になる前の柔らかな日の光が降りそそいでいた。 「乱菊」 ギンは背中に声を掛けた。ゆるりと、やけにゆっくりと乱菊は振り向いて、そしてかすかに笑う。 「久しぶりね、そう呼ぶの…………ギン」 自分もまた久々に名を呼ばれ、ギンは柔らかく微笑んだ。 「もう、ここには誰もおらん」 「そうね。もう、誰もいないわ」 乱菊の笑みは日の光に消えてしまいそうで、ギンは眉を寄せる。 「探そ、乱菊。ボクこっち探すさかい、乱菊はあっちな」 あえて行動を示し、それでもギンは気遣わしげに手を伸ばすと、乱菊の頭を撫でた。乱菊は自分の中で何かが緩むのを感じて、俯いた。 「乱菊?」 ギンが背を屈めて覗き込む。乱菊は顔を上げて微笑んでみせた。 「大丈夫。探そう。もしかしたら怪我が酷くて動けないのかもしれない」 「……そうやね。探そ」 ギンはそっと乱菊の背中を押した。風に吹かれるように乱菊は前に進む。ギンは何度も振り返りながら、乱菊とは反対の方にある茂みにもぐっていった。 木立にはいると、枯葉が積み重なった土が軟らかく、草履がめり込んだ。秋も深まった林の中はどこか乾いていて、木々も草花も枯れた色をしている。かさかさと乾いた音をたててギンは茂みの間を覗き込んでいた。 背中ではずっと乱菊の霊圧を量りながら、ギンは真剣に探していた。ギンはあの友人が生きているとは思っていないし、できれば自分が彼女の遺体を見つけたいと思っていた。遺体が残されているならば、おそらく酷い損傷を受けているだろう。そんな友人の遺体が転がる様を、乱菊に見せたくはなかった。 しかし、長い時間が経って、乱菊の霊圧が乱れたのをギンは感じた。 舌打ちしてギンが駆け寄って見たものは、木の根本に座り込んで呆然とこちらを振り返る乱菊の姿だった。弱い風に山吹色の髪と唐紅のたすきがゆらゆらと揺れている。葉の殆ど落ちた枝々の間から射し込む光に、白い肌がますます白かった。 「乱菊?」 呼びかけても反応がない。近寄ると、乱菊が抱えている物が見えた。 二本の腕と、その先に握られた抜き身の刀だった。
ギンは乱菊の前に座り込む。乱菊がゆっくりとギンを見た。青い眼に自分の姿が映るのを見て、ギンは硝子玉のようだと思う。 「刀を、放さないのよ」 呟くように乱菊は言った。注意深く、ギンは先を促すように頷く。 「固く握っていて、どうしても刀を放してくれないの。必死だったのね。でももう、楽になってほしいのに」 ギンは二本の細い腕を見る。その先の小さな手は、おそらく死後硬直だけではない固さで斬魄刀の柄を握りしめていた。そして指先の爪を見てギンは溜息をついて顔をしかめた。一度、眼を閉じて、開ける。 歪んだ小さな爪は淡い紅色に染められていた。 ギンは手を伸ばしてその小さな歪んだ爪に触れる。表面ががたがたしたその爪は丁寧に磨かれていた。 ギンがその爪に指を伸ばしたのを見て、乱菊は微笑んだ。 「ギンも覚えていたのね」 「よう覚えとる」 「ギンは知ってた? あの子の、爪のこと」 「ちょろっと、弟の思い出やて」 「そう。やっぱり話してたわよね…………ギンのこと、好きだったから」 「……うん」 乱菊は俯いて、優しく血にまみれた腕を撫でた。俯いた拍子に肩から山吹色の髪が流れ落ちて、ギンはそれに手を伸ばしそうになり、止めた。乱菊はただ腕を撫でている。 「乱菊、手から刀外すで」 ギンは乱菊の両肩に手を置いた。 「外してやらんと、この子、いつまでも戦っとるままやないの」 乱菊が顔を上げた。その青い眼にようやく力が戻り、乱菊は抱えていた腕を地面に降ろす。 「そうね。早く外さないと」 ギンは頷くと、手が握っている刀を地面に横にして片膝で押さえた。乱菊が両手で腕を押さえる。それを確認して頷くと、ギンは固く握られた指に手を伸ばした。 小さな指をほどこうとして慎重に力を加えると、生命を失った、冷えきった硬さの抵抗があって、珍しくギンは手を止める。乱菊はじっと小さな手を見ている。ギンは横に頭を振って、再び力を加えた。
終始、無言だった。 冷たい指を少しずつ刀の柄から剥がすのにはかなりの時間を要した。硬直している指を折らないように、ギンは慎重に指をほどいた。乱菊は息を詰めてそれを見つめていた。 十の指全てをほどき、刀の柄がからんと固く響いて地面に落ちたときには、太陽はかなり高く天頂へと登っていた。乱菊は唐紅のたすきをほどくと、それで二本の腕を包んだ。そしてそれを抱きしめる。そして顔を空へと向けた。
空は、高く深く晴れ渡り、青く青くただそこにあった。
「昔、話したこと覚えてる? ……ギン」 空を見上げたまま、乱菊は呟いた。 「何やろ」 「空を脚の間から見ていると、まるで落ちていくようだって」 ギンは、ああと頷いて微笑んだ。それはまだ流魂街にいた頃だ。まだ、先にこんな未来が待っているとも知らず、共にある未来をぼんやりと夢見ていた無邪気な頃だ。 「覚えとるよ。空がまるで穴みたいや言うとった。地面にしがみついている手ぇ放したら、空に落ちていくんやて、それが死ぬゆうことや思うて言うたなあ」 「そう。そう言ったのよね、あたし」 乱菊は眼を閉じた。瞼を透かして光が柔らかく瞳に入ってくるのを感じて、乱菊の眼の奥がつんと痛くなる。 「いつも空はぽっかりとその口を開けていて、あたしたちは気を抜くとすぐにそこに落ちていくんだって、思ってた。そう、普段は本当に気がつかないふりをしていたのね。本当はいつもいつも頭上に、空はあったのに」 ギンは無言で、乱菊の露わになった喉を見ていた。 「もう、みんな落ちていったわ。みんな、あたし達を残して」
石蕗の花のような少女だった人はやっと入隊をしたその一年目に、魂葬の帰りに虚に出会して、仲間を庇って突き殺された。 菫の花のような少女だった人は病気の母親を看取った後に同じ病気に罹り、痩せ細って死んだ。 何人も何人も、誰も彼も死んでいった。 そして。 竜胆の花のような少女だった人は虚に体の殆どを溶かされて、腕だけを残して死んだ。 その小さな手の先の、歪んだきれいな色の爪だけを本人である証として。
「乱菊」 ギンが呼ぶと、乱菊は顔を向けた。無表情なその顔の中で、双眸の青が滲んでいる。 「ギン、あたしよく分かった。毎年毎年、学院から沢山の死神が入ってくるのに、死神の数は決して増えたりしない。そりゃそうよ。その殆どが数十年の間に死んでいくんだもの。増えるはずがない。あたし達の学年だって、あと何人残ってるのか」 「乱菊」 「みんな死んでいった。みんな空に落ちていった。あの子達は……初めての友達だったのに」 「乱菊」 ギンは両腕を伸ばすと、唐紅に包まれた腕ごと乱菊を抱き寄せた。何の抵抗もなく乱菊は腕の中におさまり、その途端、大きな眼から涙が零れ出す。 乱菊はしゃくり上げることもせず、泣き叫ぶこともせず、ただ大粒の涙を零していた。腕の中の乱菊を見て、ギンは遠い昔によく泣かれたことを思い出した。昔から乱菊の泣き方は変わらない。喉の奥にある暴れる感情を上手に吐き出せず、ただ涙からしか外に出せない。 「乱菊。ボクらが覚えとればええ。それでええ。あの子らと乱菊のこと、ボクも覚えとる。なあ、乱菊。それでええやろ」 ギンは乱菊を固く抱きしめて、頭の上で囁く。腕の中で乱菊は身動ぎもせず、ただわずかに眼をギンに向けた。ギンは苦く笑う。 「乱菊。もうあの子らは痛いことも辛いことも浄められとる。ボクらとのことも確かに洗浄されてなくしとるけど、でももう痛ないんや」 「……うん、それは、本当に、嬉しいと思うの」 乱菊はギンから眼を外さずに呟いた。 「ただ、どうしても胸が苦しい。締め付けられるよう」 ギンは眼を閉じ、そして山吹色の髪に顔を埋めるようにした。そうすれば乱菊と一つの塊になれるかというように、その体を縮こまらせた。 「……乱菊は、寂しいんやね」 ギンの小さく小さく呟かれた言葉に、乱菊は目を見開いた。そして、一度、ゆっくりと瞬きをすると、また目尻から涙が零れた。 「そうね、ギン。寂しいね」 ギンの胸に顔をすりよせて、乱菊はただ泣いた。ギンの鴉色の装束にぱたぱたと涙の染みができる。微かに震えている肩を感じて、ギンは顔を歪めた。 ギンは何も言えないでいた。口にできる言葉など何一つなかった。 乱菊を一人にしたのは他ならぬ自分だった。一人になった乱菊の傍に自分がいられないようにしたのも、他ならぬ自分だった。ギンはそれをよく自覚していて、だからただ乱菊を抱きしめるしかできない。
しばらくずっとそうしていた。
泣きはらして白目の部分が紅くなった眼で、腕の中から乱菊がギンを見上げた。ギンは黙って見つめかえす。その柔らかい視線に乱菊はかすかに表情を和らげ、そして囁く。 「ギン、約束して」 「何やろ」 「頼むから、生きていて」 ギンは何も反応を示せない。乱菊は続ける。 「仲良くできなくても、傍にいなくても構わない。あたし達の過去を捨ててもいい。だからお願いだから生きていて。怪我もしないで、病気もしないで。危ないことにも関わらないで……あんたは自分から突っ込んでいくから」 そこで何かを思い出したかのように、乱菊の口元に笑みが浮かんだ。 「約束して……ギン。あたしはあんたが元気でいれば、それでいいから」 ギンは苦くにがく笑った。そして眼を伏せて、喉につかえる重いものを飲み込む。そして目を上げると、背を曲げて額を乱菊の額につけた。青い眼を真っ直ぐに見る。 「大丈夫や、乱菊」 囁くように、声の響きに苦さが出ないようにそうっと、ギンは言う。 「昔、言うたろ。乱菊が空に落ちそうなったら、ボクが手ぇ掴むて。病気なったり死んだりしとったら出来ひんやないの。大丈夫や。大丈夫…………ボクは乱菊の手を放さん」 自分が空に落ちていくまで。 ギンは最後の言葉を飲み込んだ。
目の前の緋色の眼を見て、乱菊は静かに息を吐いた。ギンは約束するとは言わない。約束できないとも言わない。ただ大丈夫だと繰り返すこのことが、ギンに言えるぎりぎりのことなのだろう。まだ皆が生きていた頃よりも前からずっと、自分の中にひっそりとあった微かな不安をふと思いだし、けれどギンの精一杯の言葉に乱菊はそれを胸の奥にしまい込む。そんな諦めにも似た思いを抱いて、乱菊は腕の中で唐紅の衣に包まれた友人を抱きしめた。 ギンは額を離し、空を見上げた。そして乱菊を抱き直し、柔らかく包み込んだ。その腕の中で乱菊もまた空を見上げた。
空は高く高く、どこまでも深く青かった。 底のないその空は、いつか見たときと同じように、時間に寄らず場所に寄らず、どこでも誰に対しても公平に、ただそこにあった。それは不条理で理不尽なこの世界でただ二つだけ、全てのものに公平に与えられたものの一つだった。 その底なしの青を、手を繋いで二人は穴のへりから覗き込んでいた。
時の流れに押し流されて、いつか落ちていくその日まで。
---終---
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