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地上の縁からのぞき込むと深遠の青が底もなく 1

 学院入学の日、乱菊とギンはそれぞれ呆然としていた。
 式典も終わり、新入生はそれぞれ教室で説明を受けていた。乱菊もまた同様に教室におり、そして教師に呼ばれて教卓の前にいた、そのときだった。
「市丸か!」
「はあ、そうです」
 怒り狂って怒鳴る教師にへらへらと吹けば飛ぶような笑みを返して、窓から入ってきた男は、紛うことなく市丸ギンだった。銀色の癖のないさらさらの髪、きめの細かい白い肌、常に笑っているような眼と唇、人を食ったような笑み。ギンは木の葉だらけになってはいたが新品の張りのある制服に身を包んでいる。白い袖には空色の線が二本、同色の袴。初めて見るギンの晴れ姿に、怒るのも呆れるのも忘れて、乱菊は立っていた。
 同時にギンも窓枠に片足を掛けたまま、動きを止めていた。窓によじ登ったときに最初にギンの眼に飛び込んできたのは、真新しい制服に身を包んだ綺麗な人の姿だった。白い袖に茜色の線が入り、それと同色の袴。白い着物の線がきれいに出ている華奢な肩の上で、乱暴に切り揃えられた山吹色の髪が映えている。こちらを見つめるのは青い大きな眼。凛々くも愛らしい乱菊の制服姿に、ギンはしばし見とれた。
 乱菊は、ギンが窓から顔を覗かせた瞬間に振り向いた。そしてお互いに動きを止め、僅かに強張った顔をしてお互いを見つめた。そこへ教師が真っ赤な顔をして怒鳴りつけてきて、呪縛が解かれたかのようにギンは窓枠から飛び降りた。一瞬だけ視線が外れ、二人は同時に息を付き、そしてまたお互いに視線を向けた。
「市丸!」
 教師は声を震わせて怒鳴った。
「君はどうして入学当日早々こんな遅刻をやらかしているんだね! 首席入学だというのに、自覚が足りなすぎる! 君がなかなか来ないものだから、級長を次席の松本君にお願いするところだったんだ……反省しているのか!」
 そこでようやくギンが視線を教師へ向けた。にやりと笑い、ギンは教師へ言った。
「ボクなんかよか、その……松本さん、ですやろか、そのお人が級長しはった方がええん違いますか。ボク、こんなんですもんなあ。それに他のお人らも別嬪さんが級長しはった方がええですやろ。なあ」
 乱菊を、松本さんと呼ぶときだけ微かに言葉の流れが滞ったが、それは不自然な程ではなく、ギンはさらりと軽い声で最後まで言った。その間、乱菊はずっと押し黙ったまま、ギンを見つめている。
 ギンは再び乱菊に視線を戻した。その表情は相変わらず硬かったが、乱菊の全身を見やるように眼を動かし、そして眼から力が抜けて和らいだ。
「ホンマ、制服よう似合ってはる……まるでお姫さんや」
 乱菊は僅かに眼を細める。今はもう遠い昔となった頃に与えられたものと同じ言葉は、乱菊の顔から力を抜いた。乱菊は、早朝に綻び始める花の蕾ような微かな笑みを浮かべる。そこに怒りはなく嫌悪はなかった。それを見てギンは手を左胸に当て、大きく脈打つ心臓を押さえて安堵の息を吐いた。
 間に立って二人を交互に見やり、教師は大きく溜息をつくと乱菊の方に振り返った。
「仕方ない……松本、やはりお前が級長を務めてくれ」
「………は?」
 教師の言葉に、一瞬、狐に摘まれたようになり、そして我に返った乱菊は間の抜けた声で聞き返した。
「君も十分に優秀な成績で入学している。一組の級長は大変だろうけれど、お願いしたよ」
「やあ、えらいすんまへんなあ」
 教師の言葉の尻馬に乗ってギンは言い、その笑みは雄弁に、してやったり、と言っていた。思わず乱菊の眉間に皺が寄る。
「……あんたそれでも首席入学? バカなんじゃないの?」
「いややなあ、そんな顔してはると眉間に皺寄りますえ」
 ざわついていた教室が静まりかえった。


 帰りの報告会が終わると、ギンは教師に職員室に連れて行かれた。教師は自分の席に座ると、その前にギンを立たせて説教を始める。ギンはぼんやりとただ立っていた。そして、何かを思いだしたかのように唐突に笑みを浮かべた。
「……何が可笑しいんだね、ああ?」
 目の前でこめかみに青筋を何本も浮かべた教師が、口元を引き攣らせてギンに言う。
「いやいや、ただ入学できて嬉しいなあ、と思うただけですわ」
 ギンの言葉に、教師が頭を抱える。そして一言、
「何にも、聞いてなかっただろう、お前」
と呟いた。そして顔を上げると、真面目な表情をした。
「いいか、市丸。お前の入学は特例だ。あれだけ遅刻したのにもかかわらず試験が受けられたのは、ひとえに護廷十三隊の藍染隊長が取りなして下さったからだということを忘れるな。勿論、お前の非凡な能力もある。お前が真面目に勉学に励めば、おそらく飛び級で卒業できるだろうし、入隊できるだろう。優秀な成績を期待されているからこそ、入学を許されたことを忘れるな」
「はあ、よう肝に銘じておきますわ」
 藍染の名前が出て、ギンは口の中で舌打ちをした。先程から浴びる周囲からの視線もギンを苛立たせた。成績に限らず、それに付随する自分の全ての言動が藍染に伝わるであろうことを、ギンは再認識した。
 ギンは目の前の教師の禿頭を眺める。そしてつぅと細い眼を更に細めて、考え込むような顔をし、頷いた。
 教師が半ば呆れたように言う。
「とにかく、遅刻はするな。窓から出入りはするな。いいな」
「はい」
「なら、提出物を松本に渡して、それで今日はお終いだ。きちんと渡しておけよ。彼女はお前の代わりに級長を引き受けたんだからな。迷惑をかけんようにな」
 教師はそう言うと、脇の机を指さした。ここで提出物に記入を済ませろと言うことらしい。ギンはおとなしくそれに従い、椅子に腰掛けた。


「災難だったね」
 初日が終了し、教師がギンを説教のために連れだした途端に教室はざわめきに埋まる。机で大きく溜息をついた乱菊は、背中から声をかけられた。振り向くと、そこには小柄な長い黒髪の少女が立っていた。
「ううん、別にいい。こういうこともあるだろうから」
「ええ、松本さん、だったよね」
 少女……リンドウは、そこで小首を傾げて微笑んだ。そうすると真っ直ぐの黒髪がさらさらと音を立てて肩から前に流れる。
「乱菊でいいわ」
「なら、乱ちゃんって呼んでいいかな」
「うん」
 乱菊は少しだけ固い表情で微笑み、頷く。乱菊にとって、ギンを介さずに誰かと親しくしようとするのは初めてのことだった。リンドウは名乗ると、再び小首を傾げて笑みを浮かべる。
「先生から集めた書類をまとめて持ってくるように言われていたよね。まとめるの、手伝うよ」
 乱菊は少しだけ柔らかく笑った。
「ありがとう。半分、いい?」
 乱菊の机には、幾種類かの書類がそれぞれ束になっている。式典の後に配られて、各個人が記入したものだ。それを人ごとに紐でまとめて持ってくるようにと教師は言っていた。
「結構あるねえ。乱ちゃん、先生に文句言わないとだめだよ」
 その量を見てリンドウが苦笑いをした。乱菊もつられて苦笑するが、名を呼ばれて少しばかり鼓動が速くなった。
「五十人いるんでしょう、一組」
「これを一人にやらせようって、先生もひどいよね。級長を二人にすればいいのに」
 二人で机に書類を広げ、ばさばさと乾いた音を立てて書類を分けていると、その机に二人の少女が近づいてきた。顔を上げると、髪の短い背の高い少女と、髪を二つに結った上品そうな少女だった。
「私達も手伝うよ。大変でしょう」
 お下げの少女……スミレがそう言って、笑った。短髪の少女も頷いて、笑いかける。
「いいの?」
「もちろんだよ。それに、人数多くした方が虫除けにいいと思うし」
 背の高い短髪の少女……ツワブキは低い掠れた声でそう言うと、少し顔を近づけて声を潜めた。
「教室の後ろの方で、どうも嫌な感じの男子らがちらちら見ているよ。感じの良い男なら構わないと思ったんだけど、なんか嫌なこと話していたから。お節介なんだけどね」
 乱菊とリンドウは顔を見合わせると、ちらりと後ろの方に目をやった。教室の隅に固まってなにやら話していた男の集団が慌ててこちらから目をそらす。乱菊は溜息をついた。
「ありがとう。お節介なんて、そんなことない。嬉しいよ」
 乱菊の心臓はどくどくと鼓動を速くする。けれど、その鼓動は乱菊を圧迫することはなく、乱菊はようやく柔らかい表情で少女達に微笑んだ。


 自己紹介も兼ねたお喋りをしながら、誰もいなくなった教室で四人は提出物の仕分けをしていた。静かな空気を高い笑い声が揺らす。
「私は瀞霊廷で育ったの」
 スミレは小さな声で言った。
「といっても、暮らしは普通なの。お父様は早くに亡くなってしまわれたから」
「そうなんだ」
 ツワブキは頷いた。
「あたしは南流魂街の二地区の出身。今朝、寮に入ったばかりだよ」
「遅かったのね」
 リンドウが尋ねると、ツワブキは照れくさそうに頭を掻いた。
「一緒に暮らしていた奴らがいるんだけどね。五人で暮らしてたの。あたしだけ食べ物必要だから出ていかないと迷惑かけちゃうから死神になろうと考えたんだけど、でも奴らとちょっと離れがたくって」
「ずっと一緒だったのね」
「うん。休みになったら会いに行けるけど、しばらくは会えないから」
 そう言って笑うツワブキを眩しそうに眺めて、リンドウは話した。
「私は北流魂街の六十二地区から来たの」
 その言葉に乱菊も、他の二人も驚いて目を見張った。その様子に小首を傾げるリンドウは、貴族出身と言ってもおかしくないたおやかさで鈴が転がるような声で笑う。
「そんな治安が悪いわけでもないのよ。北にあるせいか、ちょっと荒んでいるけど」
 そう言って口元に添えられた指先の爪は、きれいに淡い紅色に染められていた。しかしその形は歪み、酷く短い。それに視線を向くと、リンドウは少しだけ眉を顰めて、苦く笑った。
「まあでも……治安がものすごく良いわけでもないから、やっぱり色々とあってね。爪の形が変になったまま治らないから、きちんと染めるようにしてるの……やっぱり、目立っちゃうかな」
 少しだけ目を伏せたリンドウの手を、ツワブキが握りしめた。
「ううん、そんなことない。淡い色で、綺麗だよ。あたしなんか、そんな女の子らしいことしても似合わないもん。ほら、ごつくって」
 背が高く、骨太らしいツワブキの手は大きい。リンドウの目の前で自分の手を開くツワブキに、リンドウは微笑んだ。乱菊もスミレも続けて笑う。
「乱ちゃんは、どこの出身なの」
 微笑んだまま、リンドウが乱菊の方を振り向いた。一瞬、あの夜のギンの顔を思い出して乱菊は躊躇したが、正直に、
「西流魂街の八十地区よ」
と言った。三人が口を開けたまま、動きを止めた。
「……だから、乱菊ちゃん、そんなに強いんだあ」
 スミレがしみじみと呟くと、他の二人も張り子の虎のように頷く。
「そんな驚くことじゃないよ。だいたいそんな強くもない」
「ううん、乱、気づいてないの。あの市丸って奴ほどじゃないけど、入試の時に、みんな乱の実技に驚いていたよ」
 ツワブキはそう言って、思い出すように眼を天井に向けた。
「霊圧解放や調節も、乱は皆より一段階は上にいると思う。だから次席なんだと思うよ」
 ツワブキの言葉に乱菊は初めて気づいたというように頷いた。
「ああ、そっか。あたし、筆記試験は散々だったから、おかしいなって思ってたんだよね」
「そうなの」
「だってあたし、漢字がまだいまいち読めないから」
「え、そうなの」
 驚くリンドウに、乱菊も驚いて尋ねる。
「同じような地区の出なのに、文字読めるの」
「だって私、尸魂界に来る前に文字を知っていたから」
「ずるい」
 乱菊はふて腐れて、机に頬杖をつく。その頭をスミレがあやすように撫でた。これまで長い間、自分の頭を撫でていた手とは全く異なる感触に、乱菊は寂しげな表情をして、そしてすぐに消した。
「死んだとき、小さかったからか。それとも単に身分かな」
「私は死んだのが結構大きくなってからだから、仕方ないわよ、乱ちゃん」
「まあ、しかたないよねえ」
 そのとき、教室の廊下のざわめく気配の中に、乱菊にとっては馴染みのものが混じり込んだ。乱菊は無意識にぴくりと反応する。
 教室の扉が開いて、ギンが入ってきた。


「おやまあ、えらい別嬪さんが揃って何してはるんや」
 乱菊を除く三人の少女が微かに警戒した表情を向け、それを見てギンは込み上げる笑いを抑えることなく、楽しそうに笑った。一人、乱菊だけが堂々として、こちらを見ている。その様子にギンは僅かに表情を消し、再び笑みを浮かべた。
「いいから、さっさと提出してよ。出していないの、あんただけなの」
 乱菊が普段より少し突き放した言い方でギンに告げる。これまでの笑みを浮かべそうになり、それを堪えて、ギンはへらりと笑った。
「それは堪忍なあ。ああ、でももうすぐ終わりそうやね。もう仲良うなりはったんか」
「そうよ」
 平然と答える乱菊の袖をスミレが引っ張っている。ツワブキはギンを睨みつけ、リンドウは静かな眼で乱菊とギンを交互に見やっている。乱菊は三人を気にすることなく、ギンを見つめている。その三人の様子を見て、ギンはほっと息を付いた。
「そら、良かったなあ」
 四人を見て、思わず口をついて言葉が出て、ギンは慌てて表情をより軽く軽く、軽薄にした。そして片方の口角だけを上げて、笑う。
 その言葉に三人の少女は狐に摘まれたような表情を浮かべ、乱菊だけは小さく、ギンにだけ分かるくらいに微笑んだ。そして、きゅっと口元を引き締めると、乱菊は凛とした声で、
「羨ましがっていないで、さっさと提出物出して。そうすれば友達でも何でも作りに行けるでしょ」
と言い放った。その口調は固く少しだけぎこちなく無理をしているようで、聞き慣れないその言葉遣いにギンは楽しそうに眼を細めた。
「あんた、寮でしょ。寮生が沢山いるんだから、仲良くしてきなよ」
「皆、ボクを怖がっとるよ」
「あんたの愛想が悪いからでしょ」
「ボクえらい笑うとるやん」
「そんな胡散臭い笑いなんか信用できないんじゃないの」
「ひっどい言い草やなあ。なんでそない機嫌悪うしてはるんや」
「機嫌悪いに決まってるでしょ。首席でもないのに級長やらされてんのよ、あたし。とにかく、さっさと出しな。もうあとあんたの提出物をまとめれば、あたし達も寮に帰れるの」
「冷たいこと言わはるお人やなあ。自分よければそれでええんかい」
「人に級長を押しつけた首席が何言ってるの。それに、あたし、ちゃんと言ってるじゃない」
 乱菊が、ギンの目の前に人差し指を突き出して、左右に振った。
「早く帰って、友達作れって。親切で言ってるの、あたしは」
 そう言う乱菊の眼は真剣で、ギンはその眼の訴えることを理解した。ギンはそれが嬉しくて仕方なく、緩む顔を隠すようにただへらりへらりと楽しそうにするしかない。
 そこに、あっけにとられていたスミレがおずおずと、ギンの顔を覗き込むようにしてきた。ギンがそちらを向くとびくりとして、それでも視線を外さずに、
「あの……もしお友達ができなかったら、私がお友達になりましょうか」
と言った。
 ギンも、乱菊も目を見張ってスミレを見つめる。スミレは眉を寄せて、困ったような怯えたような表情をした。
「だって……乱菊ちゃんが羨ましいのでは、ないのですか」
 スミレの解釈に、ギンは口元だけで笑った。
「ありがたいなあ……ほな、迷惑かけんようするさかい、よろしゅう頼みますわ」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 まだ怯えつつも頭を下げ、名乗りあう二人を、残りの三人は驚いて見つめていた。しかし、まずツワブキが大きく溜息をついて、ギンを振り返る。
「仕方ないなあ。言っとくけど、まだあんたのこと信用はしてないよ」
「そらそうですやろ。でもまあ、よろしゅうな」
 自己紹介をするツワブキを見て、リンドウがギンを見上げた。ギンも彼女を見て、へらりと笑う。先の二人と違ってリンドウの目はまだかなり警戒していたし、それを押し隠していた。その目を見てギンは感心したように頷き、名乗りあった。
 三人とそれぞれ挨拶を交わし終えて、ギンは乱菊を振り返る。乱菊はどこかほっとしたような、力が抜けた表情をしていたが、すぐにきっと眼に力を込めた。
「級長さんは、どうですやろ」
「……あんたがきちんと提出物を出して、ついでに級長もやってくれたら、考えておくわね」
「あ、ほんなら未来永劫仲良うできませんなあ」
 眉間の皺が深くなった乱菊に書類を手渡すと、ギンはくるりと後ろを向いた。
「ほな、よろしく頼みますわ」
 背中の気配を探って、ギンは柔らかく微笑んだ。そして扉を開けると、振り返ることなく教室を出ていった。
 こうして初日が終了した。





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Life is but an empty dream