G*R menu


絶対的な響きをもって鐘の音は時を告げた 1

 引き戸を開けると、春の風が小屋の中に吹き込んできた。
 まだ肌寒さを感じさせるそれは、確かにどこかで芽が吹き出した息吹を乱菊に感じさせる。目の前に広がる草原は緑が蘇りはじめていた。太陽の光は優しさを帯び、小屋の裏手に広がる常緑樹の森には、固く縮こまるようにしていた枝々が葉の一枚一枚まで伸びをしているようなのどかな気配がする。長かった冬が終わりを告げたことに、厳しかった冬を生きぬけたことに乱菊は感謝した。
 戸を開け放したまま小屋の中に戻ると、乱菊は窓を全て開け放つ。僅かな生活道具が照らし出され、乱菊は目を細めた。ここに乱菊以外の人間の気配はない。
 ギンがここを出ていって、もう三ヶ月になる。
 ある冬の朝、寒さに目を覚ますと、もうそこにギンの姿はなかった。残された一組の草履。少し開いた戸から向こうへと続く雪上の足跡。音もなく雪が降りしきり、残されていた足跡を覆い隠そうとしていた。


 いつもギンはそうやっていなくなった。


 二人で暮らしはじめて、もうどれくらい経ったのだろう。この世界での成長はとてもゆっくりとなされる。それでもこの長い年月の中で、乱菊もギンも背が伸び手足が伸び、現世でいうところの十代半ば近くにまで成長していた。その年月で、乱菊は強くなり、ギンは更に強くなっていた。霊力のない人間であれば集団でも軽く追い払えるようになり、もし霊力を持っている人間相手だとしても、殺されるようなことにはならなかった。加えて体力も筋力もついていく。背も手足も伸びていく。ギンと暮らしはじめた当初はよく寝込んでいた乱菊は、同年代の女性と比べても丈夫な部類に入るほどになっていた。
 乱菊が強くなるにつれ、ギンが家を出る期間は少しずつ長くなっていった。
 ギンが最初に乱菊を置いていってから、しばらくの間は二人で過ごしていられた。数ヶ月、もしかしたら一年以上はギンはおとなしくしていたかもしれない。一緒に起き、一緒に眠る。食料を集めに遠出するときには、ギンは必ず乱菊にそう告げてから出ていった。住処を定期的に変えても二人は一緒だった。だから乱菊も、ギンはまた出ていくかもしれないと感じた自分の予感は気のせいだったと思っていた。
 しかし、食料を多く集め、安全な住処を確保したあとに、ギンはそれらを置いて乱菊が寝ている間に家を出ていった。そのときはほんの二日でギンは帰ってきたけれど、乱菊はあのときの自分の予感の正しさを痛感した。
 ギンは何も告げずに出ていってしまう。
 長い長い年月をかけて乱菊を慣らすかのように、少しずつ少しずつ、ギンは家を出る期間を長くした。それが意図的なのかどうか、乱菊は知らない。ただ乱菊はそれに慣れた。ギンは家を出ていく、ということに慣れた。ギンの残り香の中で一人膝を抱えて、もうギンはここに帰ってこないかもしれないと思うことに慣れていった。

 毎回、ギンは乱菊のもとに戻ってきた。けれど乱菊は、ギンの不在を確認するたびにギンは二度と戻らないと感じる。そう感じるのは、ギンが家を出るときには戻る気はないからだろうと、乱菊は思っている。それでも帰ってくるギンが、何を考えて家を出て何を思って帰ってくるのか、乱菊は知らない。ギンは何も語らないし、聞いても曖昧に笑うだけだ。ギンは嘘を付くことはないが、隠していることは多いと思う。ギンが何かを覆い隠すときの笑顔は、乱菊はあまり好きではない。何を隠しているのだろうと、哀しくなる。ギンと全てを分けていこうと乱菊が思っても、ギンは乱菊から隠し続ける。
 それでも、乱菊は、ギンを待つことを止めることはなかった。
 しばらくぶりに家に戻ってきたギンは、いつも同じ表情をする。ギンを迎える乱菊を見て、乱菊がいることにまるで驚いているかのような顔をする。一瞬、細い目を僅かに見開き、そして静かに何かに耐えているようにしばらく眼を閉じて、じんわりと震える声で「ただいま」と言う。乱菊を抱きしめる腕はいつも何かに遠慮しているようで、しかしすぐに込められている力は強くなる。乱菊の肩に顔を埋めて静かに静かに大きく息を付くギンを感じて、乱菊はいつも、ここにいてよかったと思うのだ。
 ギンは、戻ってきたときに自分がいなかったらどうするのだろう。
 ひとりぼっちで家に佇み、溜息すらつかず、当たり前のようにそこを去っていくギン。おそらく落胆すら上手にできなさそうな、寂しさにすら気づけなさそうなギンを想像して、乱菊は身震いする。ギンは帰ってこないかもしれない。それでも自分はここにいよう。待つことに飽きないように嫌にならないように、乱菊は一人の生活を楽しむようにしながら、一人の暮らしを続ける。ギンは出ていくときには必ず住処を集落の傍にしたから、乱菊は本当の一人きりになることがなかったことも大きかっただろう。人は、たった一人で生きていくのは難しいものだから。
 ただ、乱菊も一人の夜に、たとえば嵐の夜だったり、たとえば音のない雪の夜だったりするときに、自分は捨てられたのかもしれないと不安に潰されそうになることもあった。もしかしたら疎ましいのかも、邪魔なのかもと想像し、あの日、ギンは自分をただ気まぐれに拾っただけなのかもとすら思ったこともある。
 そういうときには必ず、もうかなり昔に会った、大道芸人の女の言葉がふと頭に浮かぶ。そして思い出す。ギンは自分のためにいつも必死だった。何を必死にしているのか、見せてくれることもあれば隠していることもあったけれど、その必死さを乱菊はきちんと感じていた。そして乱菊は思う。もうギンは帰ってこないかもしれないけど、それはギンの考えでは自分のためになることなんだろうと。そして一人で苦笑する。あたしは、一緒にいることが一番なんだけどね。



 まだ帰ってこないのかな。もう帰ってこないのかな。
 芽吹いてきたであろう山菜を採るために森に入っていた乱菊は、中腰で摘み取るのに疲れて倒木に腰掛けてぼんやりしていた。前回、ギンは四ヶ月くらい帰ってこなかった。それはもう一年以上前のことだが、確かに、一つの季節分だけいなかったはずだ。ならばまだ帰ってこないだろう。まだ三ヶ月しか経っていない。乱菊は頬杖をついて、溜息をつく。四ヶ月過ぎたら、帰ってくるかこないか、考えよう。今は帰ってくることはないから。
 森の中は風もなく、木々の吐く息でしっとりと湿っている。薄暗く、緑がかった空気に包まれて乱菊は少しだけ寂しさを感じていた。
 何も考えないように、僅かにのぞく空を流れる雲を眺めていると、遠くの方で人の足音と小枝の折れる音、小鳥が飛び立つ音がする。この気配はおそらく、外れに住んでいる乱菊によく親切にしてくれる夫婦の奥方だろう。そのままの体勢でいると、予想通り、やがて木々の間に、腰まである黒髪を後ろに結った女が見えた。今日は紬の着物を着ている。
 ここでの暮らしは決して楽でもないが、この女はいつも清潔にきれいにしていた。それは集落が、集団として機能しているからできることだろう。乱菊が現在暮らす集落は、霊力を持つ者や腕に自信のある者が集落を守り、戦えない者はその他の生活をまかなうための全てを行っている。余所者が加わることを好まない傾向はあるが排他的というほどでもなく、十数軒という人の少なさもあって、人々の仲は良好だ。乱菊はギンとともに半年ほど前にこの集落の外れに移り住んだが、特に邪険にされることもなく、霊力の強い二人はどちらかというと歓迎されて仲間に加えられた。ギンのいない今、一番家の近いこの夫婦が、乱菊をかわいがってくれている。奥方は、昔に死んだという妹を、乱菊に重ねてみているのかもしれない。
「乱菊ちゃん。休憩中?」
 奥方が現れて、柔らかい声で問う。乱菊はにっこりと笑う。
「うん。まあまあ採れたから、少し休んだら帰ろうと思って」
「ああ本当ね。春になったわ」
 奥方は乱菊の隣に座った。
「そういえば、商人がやってきていたわよ」
「商人?」
「ええ、胸板分厚い護衛をたくさん連れていたけど」
「なんでまたこんな地区に」
「……商売じゃなくて、人買いじゃないかってみんなで話してる。逃げ出したい人はたくさんいるでしょうから」
 奥方が顔を顰めて、どことなく声も低めて言う。乱菊も釣られて顔を顰めた。ときどき、そういう人買いが現れる。ここでは生きていけない子供や女性を連れて行く。けれど、連れて行った先でその人達は生きていけるのだろうか、と乱菊は思う。自分もまた、弱かった頃はよく狙われた。あの悪寒を伴う嫌な感じは、決して自分の考えが外れではないと思わせる。
「私達の集落からは連れて行かれる人はいないと思うけど、女の人達は攫われないように家に閉じこもってるの」
「奥さんはどうしてここに来たの」
「乱菊ちゃんがまだ知らないと思って」
 奥方はそう言って、乱菊に向かって微笑んだ。この人は霊力があるわけではないが、体術に長けている。小屋にいなかった乱菊を心配して探していたのだろうと気づいて、乱菊は申し訳なさと嬉しさで顔を赤らめる。
「乱菊ちゃんは強いから大丈夫でしょうけど、一応ね。狙われてしまうと怖いから、様子をうかがって帰りましょう。ここは多分、たんなる通り道でしょうからすぐにいなくなると思うの」
「通り道って?」
「ほら、ここは西の大路への通り道なの。よく商隊とかの集団が通るのよ」
 この集落を住処に選んだギンの意図が分かって、乱菊は眉を顰めた。奥方が問うような表情をしたので、慌てて乱菊は笑みを浮かべるが、内心は少し腹が立っていた。
 ギンはいつもそうだ。乱菊は心の中でギンに向かって文句を言う。ギンはいつも乱菊に選択肢だけを示す。待つことと、待つのをやめること。かわいがってくれる人と一緒に暮らしてもいいし、数字の小さい地区へ移動する集団に加わってもいい。人買いに攫われるよう考えているわけではないことは分かっているが、とにかくギンは、まるで乱菊に待っていて欲しくはないかのようだ。ならばどうして、帰ってきたときにあんな顔をするのだろう。乱菊は、ギンのその、徹底できない弱さが嫌いだ。嫌いで、なのにとてもいとおしく感じる自分がばかみたいだと思う。
 乱菊の微妙な百面相を勘違いしたのか、正確に理解したのか、奥方は乱菊の目を覗き込むように笑って、
「ギンちゃん、商隊に紛れてひょっこり帰ってこないかしらね」
と言った。乱菊は苦く笑う。
「ギンはいつもふらふらしているから、別にいいの。もしかしたら帰ってこないかもしれないけど、あたし、ここの暮らし好きだし」
 それは半分嘘で半分は本当だ。乱菊は、この八十地区では貴重な穏やかなこの暮らしを楽しんでいた。強盗の集団が来ることもないわけではないが、統率されたこの集落では殺される人もいなかった。血の流れない日々が嬉しくて、乱菊はのびのびとしていた。これでギンがいればいいのに。それだけが棘のようにちくちくと乱菊の胸の中にある。
 大人びた顔で苦笑いをする乱菊の頭を奥方がそっと撫でた。今度は乱菊は年相応の顔で苦笑いをする。
「ギンちゃんにも困ったものね」
「これまでもしょっちゅうあったの。いいの、帰ってこなくても。あたし、強いから一人で暮らせるもの」
「乱菊ちゃんはもてるから、ギンちゃんがいないと一人にはさせてもらえないでしょう」
「うーん、最近、ちょっと煩いかな。なんなのかしら、あれ」
「ギンちゃんが帰ってこないから、この隙に乱菊ちゃんを恋人にしたいと思っているんでしょうよ」
 奥方の言葉に乱菊は思いっきり不機嫌になった。
 ここ一月ほど、春が近づくにつれて人々も浮かれてきたのか、集落に数人いる若い男達が乱菊に付きまとうのだ。何をするでもなく、話しかけてきたり周りをうろうろしてみたりなので、明快さを求める乱菊は不愉快になる。ギンがいた頃はそんなことはなかったので、やはりこの隙に、ということなのだろう。
「鬱陶しいのよ、あの人達。言いたいことがあるならはっきり言えばいいのに」
「ふられることがわかっているから言えないのよ」
「そりゃあ、ふるわよ。作業の邪魔をするし、夜には小屋の周りをうろうろされて気持ち悪いし」
「……そんなこともあったの?」
「あたしが怒りのあまり霊圧を跳ね上げたら、帰っていったわ」
「……乱菊ちゃんの方がはるかに強いから、その点は心配してないけど」
 奥方が溜息をついた。
「ギンちゃんもねえ。放っておいたら乱菊ちゃんがこうなるっていうことくらい、わかっているでしょうに」
「でも別に、あたし、ギンとどうこうってことじゃないのよ。ギンは関係なく、ああいう男の人って嫌。男の人自体、そんなに好きじゃないわ」
「ギンちゃんのことは好きでしょう?」
 奥方の問いに、乱菊は言葉に詰まる。そんなこと、深く突き詰めて考えたことがない。ギンはすでに乱菊の生きる世界のほとんどを占めているし、その世界そのものがギンから与えられたものだ。呼吸することを、食べることを特に何とも思わないのと同じくらいに、ギンのことも考えたことがない。
「好きって言うか、なんかもう……よくわからないわ。小さいときからずっと一緒にいるから、もう好きとか嫌いとか、わからないのよ。あの男の人達が言うような、恋とか愛とか、そんなのじゃないと思うけど、だからといって家族みたいな感じもしないの……家族を知らないから、わからないけど」
 考えながら言葉にしてみるが、言葉にするはしからどんどん真実から離れていくような気がする。ギンと乱菊の間に流れているものを言葉にするのは難しい。全てが含まれているようで、全てがないようで、乱菊はただ、ギンの後ろ姿を思い出して体の奥がぎゅっと痛むのを感じる。

 この痛みの名前を、乱菊は知らない。

「乱菊ちゃんとギンちゃんが一緒にいるところを見たときには、なんだか夫婦みたいだなと思ったりもしたけど、夫婦ともちょっと違うのよね」
「だって、奥さんだって旦那さんと恋をして夫婦になったんでしょう。あたしとギンの間にはそんなのなかったもの」
「そうねえ。あの人とあたしの間には恋はあったような気がするわねえ」
「あたしとギンは何でもないのよ。それに、もうギンは戻ってこないかもしれないんだし。ただ、あの男の人達が言うような恋なんてしなくていいわ。ああいうのが恋なら、あたしは恋を知らなくていい」
 言い切る乱菊に、奥方は微笑んだ。





  G*R menu novel short story consideration
Life is but an empty dream