テンゴクノカギ:1【アメリナゼロ】




「今夜、あなたは3度、あたしを裏切るわ。」
「何を言うの!わたしはあなたのためなら死んでもいいと思っているのに!」






 静かな場所で食事をしているとき、リナがふと、思い出したように言った。
「ユダがいて、イエスがいて、ペテロたちがいて、まるで最期の晩餐ね」
それだけ言って笑うと、リナは再び食事に専念する。
ただでさえ静かだったテーブルは、殊更静まり返って、恐ろしいほどだった。
セイルーンの王宮の大食堂がたった5人の為にのみ開かれていて、沈黙がその広い部屋を埋め尽くすほどに膨張している。
それは、まるでどこかが狂っているかのように、歪な空間。
「まさか、ユダと言うのは僕のことではないでしょうね?」
沈み込んだ色を浮かべる面々の中で、妙に明るい快活な声で言ったのはゼロス。
同じように澄んだ声音で応えたのはリナだった。
「あんた以外に誰が居るって言うの?こんなに見事なキャスティングはないわ」
これ以上に愉快なことはないとでも言うように、二人が声をあげて笑う。
その様は余りに無邪気で、他の三人との違和感が不可思議だった。
「なるほど僕がユダで、それではあなたがイエスですか?」
「だってそうでしょう?これから全ての罪の重荷を、ひとり背負って死ぬんだから」
リナが言い終わりもしない内に、綺麗で滑らかな床から、フォークの打ちつけられた嫌な金属音が響いた。
視線をやればらしくもなく感情的な表情のゼルガディスが、立ち上がってリナ達を見ている。
「いい加減にしろ。おまえひとり死なせたりはしない。そんなことにはならない」
知的な唇から洩れたのはそれだけで。
彼は、子供じみた八つ当たりを浴びてしまったフォークを拾うと、また静かに席についた。
「……冗談よ」
リナは笑ったが、それは更に痛々しく歪を強調させただけだった。
無闇に拡がっていく沈黙は救いがなくて、今だかつて、こんなに居心地の悪い食事風景はなかったように思う。
「……ペテロは?あなたの言うペテロは誰?」
ふいにアメリアが口を開いたが、その眼は頑ななほど、リナを視界から外していた。
「……分からないの?」
そうしてリナはもう一度笑う。
だがその笑顔は、ユダ(背徳者)以外の誰も見てはいなかった。








 降魔戦争の再来。
その神託や予言が降りてから、まだ半年も経ってはいない。
しかし恐るべき速さでそれは現実となり、それよりももっと恐るべき速さで、今、終末を迎えようとしていた。

始まりは、余りに魔族らしからぬ地味な攻撃からだった。
5人の国王を捕らえ、12の村を消滅させ、40の教会を焼いた。
それから3日間黙し、その後捕らえられていた5人の国王を、それぞれ魔王の腹心を模した形でセイルーンの王宮の庭に晒したのだ。
無論死体で。
人間や神の側のものが見れば、それは充分過ぎるほど、凶行と言うに事足りたし、冒涜的だった。
だが魔族としては余りに無意味で余りに地味だ。
何より人間を意識しすぎている。

 魔族の意図を測りかね、神の側に属する者をも含めた集まりが、早急にセイルーンで開かれた。
そしてアメリアも列席したその会議の中で、魔族側が遂に要求を述べに赴いたのだ。
使者はゼロスだった。




 「本日はお願いがあって参りました。きっと、お聞き届けくださいませ」
慇懃無礼なほど馬鹿丁寧なお辞儀をしてから、ゼロスはその場にいる全ての者に視線を巡らせた。
その姿は、見慣れたいつもの笑顔を浮かべた、酷く人間じみた姿だったのに、いつもは感じなかった禍々しい気配に満ち満ちていた。
恐らくは話を通し易いように意識してのことだろうが。
アメリアは考える。魔族が、人間を相手に何をそんなにまでして望むのか。
「こちらからの要求を述べる前に、ひとつ申し上げます。貴方方が僕らの要求を聞き入れるなら、僕らは決して人や神を攻撃致しません。僕らは存在の根底から、嘘をつけないように創られている。この存在に賭けて、真実を誓いましょう。そして同時に、貴方方がこれを聞き入れないときは、降魔戦争の再来を、お約束致します」
そう言って細く目を開き、微笑んだ異形のものは、ゆっくりと、「要求」について話し始めた。




  あらゆる国から、村から、この地上の全ての土地から、
  リナ・インバースを疎外しなさい。
  故郷であろうとも、教会であろうとも、あれを受け入れてはならない。








迎える腕をたったひとつだけ残し、そこ以外に帰る場所はないのだと思うように。
そして、やがてその身を魔へと堕とし、世界を混沌へと導いてくれるように。
この世との契りを絶つ。
それが彼らの計画だった。




「そう、それで?呑んだの?」
躊躇いつつも会議で起こった出来事をリナに話したとき、彼女は思いのほか冷静だった。
「まさか!魔族の目的は分かってるわ。あなたを孤独にして、絶望させ、世界を憎ませ、あなた自身の意志でこの世界を滅ぼさせる気じゃない。―――わたしたちは、そんなことも分からないほど、馬鹿じゃない」
リナの言葉に、苛立ったような声をあげたアメリアを宥めながら、ガウリイがなんでもないことのように笑って言った。
「みんなで戦えばいいことじゃないか。今までみたいに、またきっと勝てるさ。おまえさんが居るんだからな」
ガウリイの隣りに居たゼルガディスも、苦笑を浮かべながら同意した。
「全く、おまえといると刺激的な人生が送れるな。退屈って言葉を忘れそうだ」





 その時はまだ、みんな笑っていた。





 だが、魔族との戦いはあまりに凄烈を極め、各国の王も民衆も神族も、直ぐに疲れと絶望を色濃く滲ませた。
純魔族からの直接的な攻撃こそなかったが、連日連夜、レッサーデーモンを始めとしたおぞましい数のモンスターがリナのいるセイルーンを中心に、至るところを襲撃してきたのだ。
安息のない日々。精神的な苦しみは、ときに肉体的なものよりも、人を蝕む。
自分や、自分の大切なものが傷ついて、また死んでいく、戦争。
誰かを憎まずにはいられなくなり、誰かを傷付けなければ自分を保てないほどに辛い思いを感じる。
そうなれば自然その敵意はリナに向く。
上手く事情が飲み込めない者や、傷ついた者、傷ついた者の傍に居る者、戦い続ける者達は、流れ易い方に体を預けようとして、少しずつ、魔族の標的であるリナを疎んだ。
疲れの傍らには、常に魔物が息を潜めているのだ。







 「限界ね」
リナがそう言ったのは、夕暮れ時、不自然なほど綺麗な、夕日に燃える赤い街並みを眺めながらだった。
「限界ってなにが?」
別の戦場に借り出されているガウリイやゼルガディスの代わりだと、無理を言ってリナの傍を離れようとしないアメリアが、リナに視線を向けながら言った。
リナの横顔にも夕日が差していて、何もかもが赤く染まっている。
「分かってるでしょ?もうみんな、誰が一番悪いのかに気付いてる」
真っ直ぐ、遥か彼方を見詰めるリナの横顔から、虚無が覗いているのを見た気がした。
「なにを言ってるのよ。この戦いは、魔族以外の誰も、何ひとつ悪いことなんてしていないわ」
アメリアは言ったが、彼女の横顔に見た虚無は、自分の中に覗いているのかもしれないと、少し思った。
骨の擦る音さえ響きそうな静けさの中で、リナがアメリアの方に僅かに顔を向ける。
「嘘つきね。あなただって気付いてるくせに」
呟きながら立ち上がると、腰掛けていた瓦礫が崩れ、がらがらと重苦しい音を立てた。
言葉を失ったように立ち尽くすアメリアの前で、リナは腰の剣を抜き、いつの間に現れたのか建物の影でゆらゆらと揺れている幾つもの影に向かって走り出した。
全部倒したとは思っていなかった為、さして驚きも感じなかったリナは冷静に、下級魔族の一匹一匹を確実に仕留めていく。


援護に入らなければ、と、頭のどこかではそう考えているのに、それが体に指示を出す神経にまでは行き渡らず(あるいは塞き止められているかのように)立ち尽くしたままのアメリアの視界の中で、リナは戦っていた。
その体は血まみれだった。
守らなければと思うのに、何度その体を癒しても、一瞬後にはまた血にまみれているのだ。
あの人がなんの為に戦うのかがまるで分からない。
どうしてあんなに傷ついているのかが分からない。
だから時々、どうしようもなく苛立たしく、そして哀しい。
本当は、とっく絶えていたはずの世界。
この世界が存在し続ける限り、あの人は戦うのだろう。

それならば本当の救いとは、まどろみのような癒しでは決してなく。
あの人自身が、かつて守ったこの世界を、同じその手で滅ぼすことかもしれない。
(世界は彼女に代価を支払わなければならないのだ。代価を)






 本当に正しいのは、あの魔族ではありませんか?






 悲鳴でも、驚愕の声でもなく、リナは冷ややかな眼をした。
不意を打たれ髪を一房掴まれたとき、リナは迷わず自分の髪を切り落とした。
肩口から舞う、赤い髪。
あと一瞬でも判断が遅れていたら、その命はなかっただろう。
ぎりぎりの戦いの中でこそ、リナのその戦いのセンスは際立ってよく分かった。
まるで本能のように戦う。
そして祈るように戦う。

届かないはずの高みに懸けて、切実に祈りを捧げる。
まみれた血は、神聖なワインのように、深く、赤く。




全ての敵を倒したのは、切り落とし、舞った髪が全て落ちきる前だった。
リナはふうと一息つくと、落ちている自分の髪を一瞥し、その髪を全て焼き払った。
もはや何にも未練はないとでも言うように、燃える自分の髪を振り返りもせず。


 「どうして泣いてるの?立って、戦いなさいよ。
  ――こうなることは分かっていた筈でしょ?」
誰より速く先陣を切り、戦い方を示す、本当なら救世主と呼ばれる筈だったのに。
やがて、十字架に掛けられる道を覚えている。



いつもよりも一際赤い髪が揺れる。
短くなった髪の隙間から、掠めるようにうなじが見え隠れしその白さが早宵闇に慣れ始めた眼を刺した。
その背後で街は燃えていた。

とうに人の命の絶えた、かつての街が。




 そしてその日の夜、人と神の連合軍。
その上層部の会議の中で、世の安寧と正義の名の元に、
リナ・インバースの処刑が正式に決議された。

2006年01月17日(火)
BACK NEXT HOME INDEX WEB CLAP MAIL