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■ 吹雪が丘
エンセレ←美奈はるみち
うちのお約束。何度と無く繰り返した転生のうちのひとつ。 クリスマス話なのにちっとも楽しげじゃなくてすみません。反省しています。
written by みなみ
マントを前で固く締めながら、真白く染まった中庭をゆっくり歩く。時の気まぐれに静まり返った吹雪が丘を、雪を踏みしめる音だけがするする流れていった。 真鍮の鷲形ドアノックを、知り合う者同士の合図に3回鳴らし、中で迎える足音すら待たずにぎぃと押し開ける。 「無用心」 「開けておいたんだ。そろそろ着く頃だと思ってね」 遅まきに訪れた家主は、久方ぶりの挨拶にそぐわぬ悪態を受け流す。対する客人は不機嫌そうに、振り返るその背について奥へと進んだ。懐かしい、古い屋敷の匂い。 過ごし難い厳しい気候に愛されし丘の上、ぽつんと立った大きいばかりのこの屋敷に自分が住んでいたのはもう何年も昔の話だ。 今もまだ、下男のひとりも置かずに過ごしているのは酔狂なこの従兄弟一家のみ。 「暑いわ」 部屋に着くのも待たずマントを外し、前を行く長身の従兄弟に押し付ける。溜息混じりにそれを受け取り腕に下げた男は、辿りついたつるばみ色のドアを開けながら肩を竦めた。 「毎年毎年同じ文句で飽きないのかい、美奈。」 開け放たれるなり、美奈子の頬を熱い空気がふわりと打った。寒々とした雪景色の中から現れて芯から冷えた美奈子にとっては、まあ心地良いものと言える。とは言え、いかれていると思わせるほどの焦げた匂いは毎年のこととは言え慣れなかった。 「いらっしゃい、美奈」 「お邪魔してます、みちるさん」 従兄弟の妻は美しく波打つ髪を揺らし、優雅な会釈をした。美奈子も礼に倣って頭を下げるが、この人にも慣れる気がしないと内心思っていた。 「うさぎ、美奈にご挨拶は?」 桜の樹皮の色をした絨毯の上、寝転がって本を読む少女は、はるかの声に一度だけ顔をあげたがすぐにまた本に視線をおろしページを繰った。頬には絶えず小さな微笑みを浮かべていて、微かにだけ空気を震わせる歌を奏でていた。 少女は彼女の家系の者に相応しく金色の髪をしていたが、その色は他の誰より鮮やかでどこか人間離れしたような色彩があった。くっきりとした青い瞳を縁取るわずかばかりの紺も、儚げに晒された二の腕も、まるでよくできた人形のそれ。この頑なな土地の真冬にあって、春の日の草原のような出で立ちは、不思議な気配を放っていた。 「相変らずなのね」 「……ああ、まぁね」 真珠色の涼しげなワンピースに身を包んだうさぎの為に、暖炉の火は熱く燃えている。激しくはぜり、一晩中焼かれた暖炉の石の、焦げた匂いが鼻につき美奈子の顔を歪ませる。しかしそれもほんのわずかな時間のこと。すぐに鼻は利かなくなり、家の者同様澄ました顔ができるだろう。 「まるで春しか来ない国のお姫さまね」 随所に絵の挿した本は知らない言語で書かれていて、それを読んでるわけでもなさそうなどこか上の空のうさぎは、すぐそばでしゃがみこんだ美奈子をまるで意に介さずに、同じ歌を繰り返しハミングしていた。間近で聞いても聞き覚えのないメロディー。去年も彼女は同じ歌を奏でていただろうか。 「はるか、いい加減街に下りたらどう? 下でまっとうな教育を受けさせるべきよ。」 うさぎの頭を軽く撫でて、美奈子は立ち上がる。勧められるままにソファーに腰掛けてみちるから紅茶を受け取った。 向かいに腰掛けるはるかも、カップに手を伸ばし足を組む。 「考えないわけじゃないけど、どうだろうね。うさぎが望まないことはしたくない。」 「教育と言うのは性急にしても、医者には見せた方がいいと思う。もしかしたらカウンセリングでよくなるかもしれないわ。体の問題なのか、心の問題なのか、それだけでもはっきりさせた方がいいんじゃない?」 一口飲んだ紅茶は少しばかりくすんだ味がして、彼らがここで過ごした閉鎖的な時間を思わせた。 「美奈子ちゃんはいつもそればかりね」 くすくす笑うみちるの方をちらりと見て、美奈子は溜息を吐いた。はるかが隣でそのやり取りに苦笑する。 「美奈の言うことも分かってる。ただこればっかりは僕らの問題だ。」 「……そう言うから、今まで随分気長に見守ってきたつもりよ。」 苛立たしげにカップを置いた音に反応したかのように、うさぎが美奈子を見た。それに微笑みを返して、美奈子は少しだけ口調を緩める。 「あの子を大切に想う気持ちに変わりがないことだけ分かって。」 「ああ、分かってる。分かってるよ。」 はるかはとてもやさしい声で言った。
もう何年も何年も昔、まだはるかとみちるが婚約者同士だった頃。美奈子が吹雪が丘のこの館で暮らしていた頃。 今日のようなこんな、妙に澄んだクリスマスの夜。 10を少し出たばかりだった幼い美奈子が、珍しく吹雪いていないまっさらな雪景色の中に飛び出してそのまま帰らなかった夜。 中庭で遊んでいるものと思っていた美奈子が帰らないので、はるかもみちるも慌てて外に出た。夜半になって、途方に暮れた2人が花の灯ったことのない花壇のふちに腰掛けていると、ふいと雪を混じらせた風が吹き、その中から美奈子が現れた。 美奈子は泣いていて、腕に抱えた子供は笑っていた。 大事そうに閉じられた腕の中の、野のウサギのように純真そうな眼をした女の子とどこで会い、どうして抱えて連れてきたのかも、美奈子は覚えていなかった。ただただ、泣けて仕方なかったと美奈子は思い返して言った。 行方知れずとなった少女の届けも出ておらず、揃って18になったはるかとみちるが契りを交わしたその日から、うさぎと名付けられた少女は家族になった。 溺れるように愛する家族の中でうさぎは不自由なく育ち、静かな微笑みを絶やすことはなかった。そして冬を受け入れることも、言葉を話すことも決して無かった。 やがて美奈子が街の学校に入り丘を下った日ののちも、はるかとみちるは実の子供を欲しがるでもなく、果てしなくうさぎを守り愛し許し続けた。 何年も何年も昔の、クリスマスの夜のプレゼントは、今も古びることなく輝いている。
こうしてこの館で過ごす、年の数だけのクリスマスの夜。うさぎと過ごすのはもう何回目になるだろう。 「クリスマスの夜なのに、彼氏はいいのかい?」 「いいの。毎年のことだもの。あいつも分かってくれてるわ。」 「来年からは、彼氏さんも連れてきたらどう?」 「うーん、どうかしら。寒いの苦手だって言ってたから」 笑いながらソファーにもたれ、美奈子は天井を仰いだ。衣擦れや息の漏れる音、ぱちぱちはぜる広葉樹の薪。そんなささやかな音はどこへともなく吸い込まれ、うさぎの歌声だけが異質のもののように宙にぼんやり浮いていた。 「この丘が多分、一番天国に近いんだわ」 美奈子はぽつりと言った。 「だからここに居れば、また素敵なプレゼントがもらえる気がするの」 夢見るような眼差しに反して、声はとても冷静だった。言っている全部が見当違いだと分かっている、そう言いたげな声だった。 「そうだね」 と、はるかはそれだけ言った。
クリスマスの夜は静かに更ける。 いつの間にか、暖炉の前で丸くなったうさぎの周りに集まって、3人揃って座り込んだ。 肌触りのいい絨毯の上はいかにも寝心地がよさそうで、今夜はうさぎの隣に並んで幼い日のプレゼントのそれらしく、抱いて眠ろうかと思っていたときだった。 「美奈子ちゃん」 名前を呼ばれて振り仰ぐと、それはそれは綺麗に微笑んでいるみちるの姿。 「私たち今、幸せよ。それじゃダメかしら?」 美奈子は口をつぐんで見返した。慣れる気がしないと長年思い続けてきたのは、彼女が、極めて冷静な自分に、そうとは見えない素振りで熱を孕む鉄を振りかざしてくるからだ。 もっと簡単な言葉で言えば、怖いのだ。 勇気を持てず踏み込めない国に、彼女はためらいもなく入り暮らしている。 あぁあれは、狂気と言う名の遠くて近い国。 「ここで3人、幸せに暮らして、誰にも知られないように静かに死ぬのが夢よ。吹雪の晩にね。」 みちるは膝元のうさぎの頭を撫でて、それから、始終困った笑顔を浮かべて、すっかりそのままの顔になってしまったはるかを見た。 「そうよね、はるか? わたしたち、合図をし合って、同時に死ぬの」
この館はそれごと狂っているのだと、冷静な頭は訳知り顔で言った。 まともぶっている自分だって、丘に居るあいだは危なっかしいほどに国境いの住人。丘を下ればまた、ちょっとばかり高い家賃のアパートに住んでいるただの学生で、同じ肌の色をした恋人が居て、近所の帽子屋の手伝いをしていたとしても。 吹雪が丘、古い館、気のふれた従兄弟夫婦に、クリスマスと、昔々のプレゼント。 これらが美奈子をおかしくさせる。むこうの国へは、あと一歩もない。 胸騒ぎが、する。 ベッドメイクまでした苦労を無駄にさせるなと、懐かしい部屋に押し込まれた美奈子は、ランタンを持ってベッドを降りた。 外はまだ静かだ。 階段をゆっくり降りて、石の焼ける匂いが染み付いた部屋に行く。うさぎはまだその部屋で眠っているはずだった。小さく丸くなって、消えない微笑みを少しだけ頬に浮かべながら。 けれど赤々と燃えた暖炉の炎の前には、誰も居なかった。 はるかとみちるは部屋に居るのだろう。夜中に誰ともなく目を覚まして、様子を見に来るのはこの家の者の常だ。夜中に何度も何度も、確かめるようにこの扉を開く。そして変わらず暖炉の前で眠る小さな女の子を見て安心するのだ。心が破れそうなほどに。 思えばそれは不思議な儀式だった。ずっとそばに居るのではなく、離れてもまだそこに居てくれることを確認する儀式。 そして今、静かなクリスマスの夜。儀式は壊されてしまった。 声にならない悲鳴のような溜息のあと、振り返り、長い廊下を夢中で駆け出す。
古くて重い扉を開くと、白い闇が眼を刺した。鋭い痛みに瞬きをして、ゆっくり目を開く。 どこまでも続く雪の原に、みっつの影。女王のようにしっかりと立つ小さな影と、付き従うように立ち尽くしたふたつの影。目を凝らせばすぐに誰だか分かる。そもそもこの閉ざされた国の住人はたったわずかだ。 「……うさぎ?」 音を吸い取る雪の魔法を使わなくても、美奈子の声は頼りないものだった。 あんなうさぎを見たことがない。その背を見守るように、迷子の子供じみた従兄弟夫婦の背中だって、一度も見たことはなかった。 2人のあいだに並んで立ってみて、呆然と見守る彼女たちの視線を追う。 悲しげとも恍惚ともつかない横顔を辿れば、うさぎよりも遙か彼方、白と黒の境界にゆきつく。白雪に重く圧し掛かる夜空を背負い、誰かがこちらへと歩いてくる。王様のように堂々とした足取りで歩く男はまだ年若く、少年とも言えただろう。 距離のないスピードで、彼は間もなくすべての視線のすぐそばへとやってきた。 たおやかな笑顔を浮かべて、彼が見ていたのはうさぎだけだった。 「すまない、遅れてしまったね」 償う言葉に、うさぎが微笑んだのが背中越しでも分かった。 「いいのよ」 その声が、暗い夜の中でも光り輝いていたから。 「ああ、エンディミオン。会いたかったわ。」 初めて聞いた声は甘い響きで、雪さえ溶かす慈しみと、炎さえ凍てつかせるさみしさがあった。 ハミングする鳥のようだった少女の、本当の声。 明かされることの無かった秘密のような声。今、なんの為に響いているのだろう。 「行こう、セレニティ。」 迷い無く差し出された手のひらが答えだろうか。 きっとあの手をとって、振り返りもせずに行ってしまう。誰もがどこかで確信していた。 けれどうさぎは振り返る。 いつでも微笑みを浮かべていた頬に、今も悲しく笑顔を浮かべて。 「この丘で、必ずまた会うと約束したの」 どこの国とも知れない国の言葉だった。そう言えば彼の話している言葉も英語じゃない。なのになぜ理解できたのだろう。 「ヴィーナス、ウラヌス、ネプチューン。」 聞き慣れない高低の名で呼ばれ、けれどどれが自分の名であるかは不思議とはっきり分かる。 跪きたいほどに厳かな気持ちの彼らを前に、玉座の主のような気高い声で、うさぎはそれぞれの目をしっかりと見返した。 「すべての夜がクリスマスのようだった。すべての夜が暖かい春のようだった。すべての夜が素敵だった。」 少しだけ伏せた目を縁取る、この国のどこでも見られないような鮮やかな金の睫毛。 何度思い返しても不思議な夜だった。何度思い返しても美しすぎる夜だった。 青い瞳がもう一度彼らを捉えたとき、これで終わりなのだと気がついた。 「未来で必ず、すべてを償います。あらゆる罪の下に、あらゆる罰を負い、あらゆる責めを受けましょう。だから今、あなたたちを裏切るわたしを許してください。」 そして振り返り、永遠に変わらないだろう仕草で差し伸べられ続ける手のひらに、迷い無く手を重ねる。 「行かないで」 絶望を滲ませて囁く美奈子の声にも、彼女は振り返らなかった。 何もかも終わったのだ。 「行くな」 冷たい白銀の上に膝をつき、いつの間にか降り始めた雪の空に叫んだ。 「幽霊でもいい、もう一度一緒に暮らそう。帰っておいで」 けれど雲の向こうの陽の気配が、聖なる夜の終わりを告げる。クリスマスは永遠に立ち去ってしまった。 吹雪が丘は激しい吹雪に閉ざされて、春は二度と、二度と来ないだろう。
2003年03月01日(土)
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