金魚花火【8】

 「久しぶり」
遠くを見つめた青白い光の中心が、あたしの声に振り返る。
光の中心が目となり、それを取り巻いていたぼやぼやした光が、次第にヒトを模り始めた。完成前にあたしはもう気付いている。
「その姿で“マーキュリー”は無いわね、きっと」
「……亜美、と呼ばれていたわ。あなたこそ今はどんな名で呼ばれているの。マーズ。」
哀しげに、或いはバツが悪そうにとでも言えば良いのか、そんな曖昧な微笑みはどこか不敵だった記憶の中の彼女にはそぐわなかった。
「レイよ。――会ってしまったのね」
もし思い出せるのならばきっと何度目ともしれない再会は、ひどくあっさりとしたものになった。彼女はあたしの言葉に、着物なんて似合わない目の色をしていた頃のように思慮深そうな沈黙を返してみせたけど、本当は違う。何を言われているか分からないだけだ。ここに居る彼女はほんの一部だから。
帰りの飛行機の事を考えながら、あたしは矢継ぎ早に質問を繰り返した。
「もう会ったんでしょう?」
亜美はやっと何かに気が付いて目を見開く。そうよ会ってしまったんでしょう? だからこんな水浸しのまま、どこにも行けずにうつむいて。
「修行中の身だから、あんまり長いこと此処には居られないの。手短に説明するわね」
宣言すると、彼女は黙って頷いた。
「あなたが一目であたしをマーズと見破ったように、あたしにもあたしがマーズであることが生まれた瞬間から分かっていたわ。そしてあたしは炎の中に過去を見た。未来だったかもしれない。どちらにせよ、あたしはそれがとても怖くて、」
亜美は真摯な目であたしを見守っている。まるで幼子のようだと思った。たったひとつの感情だけが心を支配する、原始の目だ。
「怖くて――あたしはその運命から逃げたの。だから、あなただってきっと逃げていい。そう望むなら、あたしには手助けができる。そう思ってチベットからこの極東の地まで来たのよ。」
「……何の話か分からないわ」
彼女にしてはとても素直に、自分の無知を認めた。いや、元々素直だったのかもしれない。ただあの頃は、本当に知らないことなんて無かっただけで。知らないことなんて何もないと思うくらいに、あたしたちは愚かだっただけで。
でも今は知ってしまった。恋しいと言う意味を。それを知ってしまうと、他のことには途端に無知になる。
チベットの乾いた風が懐かしくなる。今夜の飛行機で日本を離れたら、きっとあたしは二度とここへは戻らない。生ぬるい風が、肌を嫌な手つきで撫でていく。予感に似て。
気が付けば殆ど泣きそうになりながら、あたしは言い募っていた。
「……会ったこともない誰かに、会いたくなるのよ。恋しくて、泣きそうになることがある。でもきっと、会ったらもっと泣きたくなる。だからあたしは逃げたの。小さい頃からずっと、この町はあたしを息苦しくさせる。」
目を閉じて風を感じた。彼女にはきっと出来ないその仕草を、亜美が少し焦がれるように見ているのが分かる。そしてその向こうから。
「ほら、もうすぐ駆けてくる。」

亜美には、せめてあたしが知っている全てを伝えようと思ったけれど、あたしの覚悟はそれに足りなくて、説明は滅茶苦茶だった。でも、彼女は何もかも知った顔で振り返る。
「もう行くわね」
切ないほどの愛おしさに満ちた目で見つめる先を、同じように眺めながら、あたしは疲れた声で言った。
「あなたは想いを果たせばいいわ。あたしは昔のよしみでせめて忠告をしてあげようと思っただけだから」
足音すら聞こえない彼方から近づいてくるその気配に、自分でも驚くほどの怯えと敬意を感じながら、反対の方向へと歩き出す。すっかり私への興味を失った彼女はただ、待ち焦がれるようにかなたへ視線を馳せている。
「またいつか、どこかでね」
それでも礼儀を通して肩越しに挨拶をした。
濃い色をした夏の草を踏むごとに、あたしは遠ざかる。見た事もない誰かから。
会いたい。
本当は振り返って、亜美すら追い越すスピードで駆け出して、「会いたかった」と伝えたい。
そうする勇気だけがないままに、あたしは遠ざかる。
佇んで、ひたむきに待ちわびる亜美の姿を思い浮かべた。
「レイ」
呼びかける声。あたしは立ち止まっただけで振り返らなかった。思い浮かべた彼女の姿が、強すぎる日差しの中、微笑んでいるように見える。
「もう大丈夫」
静かな強さ。憧れたその戦い方。
「前に進むわ」
そう、あなたは戦友、だったね。

答えも返さずに大きく一歩を踏み出す。あたしはまたここから逃げ出すけど、死ぬまでここには帰らないと思うけど、いつか生まれ変わって、あたしがもっと強くなれたら。
また一緒に戦いましょう。


2003年02月08日(土)
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