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■ 金魚花火【6】
こんな真昼の空の下でも、幽霊は幽霊のままなのかな。そう思いながら、うさぎは「もらわれ林」をうろうろ歩いていた。 あの時亜美は「ありがとう」と言った。それが、とても優しいさよならだった気がして、うさぎは亜美の名を呼べない。 今日は浴衣も着ていない。夏祭りは、もう終わってしまったから。 それでも関係無く会ってくれるだろうか。 たくさん叱られたそのあとで、はるかに頼んで買ってもらった狐の面を弄びながら、うさぎは昨日亜美と別れた木のそばにしゃがみこむ。不思議がった兄の顔。『わたあめでもリンゴ飴でもフランクフルトでもたこ焼きでもなく、なんでそんなものを?』と如実に物語りながら、それでも結局、なにも聞かずに買ってくれた。売れないまま何年もの夏を持ち越されたのか、白かっただろうそのお面は、満遍なく日に焼けて黄色くなっていた。 『本当に、困った子』 くすくす笑いは、うさぎの頭上から聞こえた。驚いて見上げると、そこには熟れた緑の隙間から覗く青空があるだけだった。首を傾げながら視線を下げていけば、たった2日だけど、細かい模様まですっかり目に焼きついた青い着物の亜美の姿。 ――亜美ちゃん!と、笑顔いっぱいで呼びかけようとして、うさぎは慌てて声を喉に沈める。その様子に今度は亜美が首を傾げた。長いあいだここで人間を見てきたが、うさぎの行動ばっかりは亜美にも予測不能だった。 うさぎは手にした狐の面を被り、いつもよりずっと大人しい動作で立ち上がる。 どうしたんだろう。問いかけようとしたとき、ソプラノの音域から微かにアルトにかかるくらい、それでもうさぎの精一杯の低い声が、亜美に語りかけた。 「亜美ちゃん、」 光にも闇にも眩まなかった亜美の目が一瞬眩む。
「会いにきたよ」
初め、亜美にはうさぎが何を言っているのか分からなかった。多分うさぎが思い描いてたほどには上手くは出来なかったから――いや、元々、無理は承知だったのかもしれない。 「…………」 それでも亜美は理解した。 「長いあいだ、待たせてごめん。」 ためらいがちにゆっくりとうさぎは話した。会ったこともない「彼」の話し方、仕草、イントネーションを模索しながら。 「お祭り、一緒に行こうよ」 亜美を包む水の滴りが初めて土を濡らす。ぽたぽたと、頬の上の同じ軌跡を辿って一瞬の雨のように土に降る。 優しい仕草で差し出されたうさぎの手の平。記憶の中で、同じ仕草で差し出されたものより一回りも小さい丸い指先。差し出しながらも戸惑って、緩く曲がっていた。 残酷だ。うさぎは知らない――覚えていない――だろうけど、それはとっても残酷だった。 その手があの時、差し出したほんの数分後、たったの数秒で、それからの何百年ものあいだ彼女を愛から別ったのに。 「……お祭りは、終わってしまったでしょう?」
心に 泳ぐ 金魚は 恋し 想いを 募らせて 真っ赤に 染まり 実らぬ 想いを 知りながら それでも そばにいたいと 願ったの
「まだ終わらないよ。」
光で 目がくらんで 一瞬うつるは あなたの優顔
のっぺりした笑みの狐の面の下で、うさぎが微笑んでいる。既にこの世の全てを見透かせる亜美には、何もかも見えていた。うさぎが狐の面の下に思い描いて欲しかったのは彼の顔だろうけれど、亜美にはうさぎの顔がはっきり見える。顔の造作は、今の亜美にとっては骨格や臓腑のように大した差異を認識させる対象ではなかった。だからこそ、うさぎの想いの中に彼が見える。 「行こう」 まだ心許なげな手の平を、それでも真っ直ぐ亜美の前に差し出してうさぎは言った。裏切りの記憶と愛しさの記憶が重なりあって、その輪郭は上手く線を結べない。 またこの手はわたしを遠い岸へ突き放すのかな。それでもいいと思った。水浸しの青白い手を、そっとうさぎと重ね合わせる。 「……いいわ」
心に 泳ぐ 金魚は 醜さで 包まれぬよう この夏だけの 命と 決めて 少しの 時間だけでも あなたの 幸せを 願ったの
どこまでもどこまでも彼方を見つめることが出来たから、滅多なことではそこを動かなかった。動く気も無かったし、まして重力を感じる生物のように、足を交互に動かして歩くなんて、本当にもうずっと昔のこと。ぎこちなく、ゆっくり歩く。彼女はそれに合わせてくれてるのか、もともと歩きにくいこの林の道におぼつかないだけなのか、やっぱりゆっくり歩いていた。 温度を捨てたわたしの手の平に、ゆるい熱を伝え続ける小さな手。 「うさぎちゃん」 頭ひとつ分も違うから、彼女は顎を大きく持ち上げてわたしを見る。 「……違うもん」 呼び掛けに続く言葉も待たずに彼女は言った。わたしはまた首を傾げてしまう。 「なにが?」 「あたし、うさぎじゃないよ。亜美ちゃんの彼氏なの。」 狐のお面を指しながら、そのお面の下の顔をしかめる。言ってる側から一人称も声色も元の調子に戻っているのに。 「……亜美ちゃん、なんで笑ってるの?」 ああ、わたし笑ってるんだ。 ありがとう、うさぎちゃん。たくさんの事を教えてくれるね。 「嬉しいから」 そしてわたしを素直な気持ちにさせてくれる。 でも、と言って、繋いだ手と反対の手で狐のお面に触れた。強い意志を持って現実に干渉する。激しい脱力感のような――痺れにも似た――感覚、(感覚?)に耐えながら、本当には存在しない指で、狐のお面をそっと外した。 「わたし、うさぎちゃんとお祭りに行きたいわ」 うさぎちゃんはしばらく考え込んでいた。わたしはその考えがまとまるのを黙って待つ。待つのはわたしの特技か性質か。どちらにしても、今はそれがとても心地よかった。風を感じられる体だったなら、きっともっと良かったのになと思いながら、ふわりふわりと吹く風に、揺られる金の前髪を眺める。わたしの肌に重く張り付く着物は、最後の瞬間だけを留めているから決して動かない。 「うん、分かった。亜美ちゃんがそう言うなら、それでいいよ。」 どんな思考過程があったのかわたしには分からないけど、うさぎちゃんは何かに納得して頷いた。その言葉が、また記憶を揺り起こす。 二百十余年、黒い川を流れていく彼の姿ばかりを繰り返し思い出した。そしてその記憶にばかり縛られた。それより前の記憶はなんだかあやふやで、わたしはまだ何か大事な事を忘れているのかもしれない。 だから、その言葉にはどきりとした。 あの日も彼は、そう言ってくれたんだ。 『うん、分かった。亜美ちゃんがそう言うなら、それでいいよ。』 そのあとで、わたしをお祭りで沸き返る町に連れ出した彼。狐のお面を被って。『お祭りに行こうよ』って。 「……うさぎちゃん」 指先との境界線を曖昧にしながら、溶け合うように手に馴染んだ狐のお面をみつめて、呟いた。 「これをどこで」 「? 昨日のお祭りで買ってもらったんだよ。」 ふたつの、狐の、お面。 「どうしたの?」 「……もうひとつ、」 「もうひとつ? あ。うん、あったよ。他のお面はみんな綺麗だったのに、この狐のお面がふたつだけ、すごく古い感じだった。かわいいのもいっぱいあったのに、なんとなくこれが気になって。――お兄ちゃんが怒ってたからひとつしかねだれなかったけど、ほんとは二匹一緒にいさせてあげたかったんだ。……どうして分かったの?」 純真な眼でお面を見つめて話しながら、不意に不思議がってわたしを見上げた。 答えようとしたけど、わたしの意識は夜の川に流されて、もうここでの干渉力を失ってしまう。うさぎちゃんの手に重ねていたわたしの手が、手がかりを失って滑り落ちた。 本当は触れ合えない。わたしたちは同じ場所に存在していない。そのことを裏付けるように、驚いて伸ばされたうさぎちゃんの手がわたしの体をすり抜ける。
2003年02月06日(木)
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