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■ 金魚花火【5】
壊れてしまったと思うほどの必死さで、はるかはうさぎを探して走り回った。勿論私の方も、人のことを言えないくらいには取り乱していたと思う。 何もなかったから良かったようなもので、「もらわれ林」のはずれでうさぎを見つけたときには、本当に心臓が破けそうなくらいの不安と安堵感を感じた。うさぎは立ち尽くして泣いていた。そんな泣き方が出来たのかと思うほどとても静かに泣いて、いつもなら何があっても真っ先に報告してくれた私たちにさえ、そこで何があったかを話してくれない。心に留めると決めたのだろう。 何かが少女を少しだけ大人にしたのだと、感じ取った。 『おかしいわね』 受話器越しにも眉を顰めているのが分かるような声。事の次第を話し終えた直後の第一声だった。 『自慢じゃないけど、あたしの祈りはご利益あるわよ。あまりにも霊験あらたかだからって、色んな国から注文があったくらいなんだから。それを並みの霊がどうこう出来るとは思えない。それに、御札には傷ひとつついてなかったんでしょう?』 「ええ。入れたときのままだったわ」 『だとしたら本当におかしな話だわ。あたしの力を破るほど強力な悪霊だったとしたら、御札の端が焦げるとか、多少なり変化がある筈なのに……』 悪霊。その言葉が変にひっかかる。うさぎの友達は本当に良い子ばかりだったから、と言えば短絡的すぎるかもしれないけど、不思議と、そんな悪いものがうさぎに近づくとは思えない。 「変化と言えば……いえ、なんでもないわ」 『何? 言ってよ、姉さん。ちょっとした変化でも重要な手がかりになるかもしれないのよ』 「……気のせいだと思うんだけど、御札に触れたとき、少しだけ――少しだけひやりとしたわ。薄い氷に触ったみたいに。すぐに消えてしまったけれど。」 『……氷。』 レイが何かに反応したように繰り返した。 「どうしたの?」 『……いいえ、なんでもないわ。ただ、あたしの力の源は火だから、例えば水を源に持つ同等の力となら、相殺し合うかもしれないと思っただけ』 レイと同等の力? 身内の欲目なしでも、世界でも屈指と囁かれている能力者のレイと渡り合える力を持つ幽霊なんて想像もつかない。 そんな事を考えていると、不意にインターホンの音が響く。家には私以外誰もいなかった。 「誰か来たみたい」 子機を持って階段を降りながら言う。 『どうぞ、待ってるわ』 保留にして玄関を開けると、うさぎだった。 「どうしたの? ひとり?」 「うん。ちょっとみちるお姉ちゃんに聞きたいことがあって」 「はるかじゃダメなの?」 「お兄ちゃん、昨日から口きいてくれないんだもん」 またなんて幼稚なふてくされ方をしてるのかしら。何も話してもらえなかったことに少なからずショックを受けたのは違いないけど、時々その相変わらずの幼さに笑ってしまう。本人はすっかり大人になったつもりでいるから余計にタチが悪いわ。 「いいわ。とにかくあがって」 「ううん。ここでいい。――ねえみちるお姉ちゃん、“恋しい”ってどういう意味?」 突然の難題に、私は思わず目を丸くする。うさぎは期待を込めて私を見つめていた。
恋しい?
前振りもなく、なんてことを聞くのかしら。 問いの難しさより、うさぎの口からそんな言葉が出たことの方に驚いた。 事実命題から当為命題は導出可能なの?とか、何かそんな事を聞かれた方がまだ驚きは少なかったかもしれない。 「恋しい……ねぇ」 私は頭をフル回転させたけれど、その問いに易々と答えるには私は満たされすぎているのかもしれない。妹と離れ離れになっているとは言っても、声が聞きたければすぐに電話は繋がる。恋しいって、どういう意味かしら。 それっきり言葉に詰まっていると、沈黙の中に「星に願いを」が小さく響いて聞こえる。そうだ、電話中だったんだ。私は思い立って、保留ボタンをもう一度押す。 「ねえレイ、恋しいってどういう意味?」 突然の問いに、呆れか、さきほどの私のような反応が返ってくるかと思っていたのに。 『そんなの』 当たり前みたいに即答だった。 『会いたい、ってことでしょう?』 自分でその言葉を消化するより先に、オウムのように繰り返してうさぎに伝えると、「ありがとう」と言ってうさぎは駆け出して行った。その背中を見送りながら、レイはどこで「恋しい」気持ちを覚えたのだろうと思った。
会いたい。何百年も経った今でも、まだ会いたい。
あの夜はすべてのものがきらきら綺麗だった。一際、夜空を染めた花火の美しかったことを忘れられない。 『綺麗だね』 子供のように無邪気にはしゃいでいた彼。わたしもその夜ばかりは、本当に無邪気な気持ちになれた。今夜全てが終わる。全ての否定を振り切って、わたし達は海の向こうにあるという遠い国に行くの。 『ええ、本当に綺麗』 寄り添った彼の肩に頭を乗せた。幼さを残した顔立ちに見合って華奢な腕。だけど頼もしくわたしの肩を抱いてくれる。 そのまま2人とも夢中で(それか上の空で)花火を見上げていた。ぱらぱらと火の粉が舞い散って、わたしたちが座り込んだ川岸まで飛んでくる。ぬらぬら不気味に揺れる川の流れに、はたはた落ちては流れていった。 『わたし達、ずっと一緒よね?』 最後の花火を見送ったあと、そっと見上げて問い掛けた。身分を纏った体を捨てて、魂の世界で愛し合うの。 『うん』 彼はにっこり微笑んだ。『お祭りに行こうよ』、そう言って微笑んだときと同じままの顔で。 風に巻かれて今まで漂っていたのか、幾粒かの火薬の燃え滓が川に落ちてまた流れていく。 流れに揺れる様が、金魚の尾のようだった。 海に向かう金魚の群れ。そんな言葉が浮かんで、自分で笑う。何言ってるんだろう。金魚は海では生きられないのに。 『海に辿りつく頃には、わたし達、ひとつになっているかしら』 『きっとね』 そう言って立ち上がりわたしに手を差し伸べた。わたしはその手を取って、誇らしい気持ちで立ち上がる。遠い国へ行くのよ。ここを離れて、海の向こうで幸せになるの。 『汚れちゃうね』 『構わないわ』 わたしの着物を気にする彼に笑いかけながら、歩き出す。この先に未来があるんだわ。 滞った闇のような黒い川に足を沈めた。夏のぬるい風の中で、足の指先から染み渡るひやりとした感覚に酔う。 深い闇の中に呑まれながら、本能的な恐怖を抑え込んだ。握る手に力を込めれば、同じ力で握り返してくれる。励まされたようにまた一歩を踏み出せば、川は一層深くなり、その流れの思いがけない勢いに足が震えた。 『大好きだよ、亜美ちゃん』 わたしを襲う流れを緩和させる為にか、彼は川上に立ってわたしを見つめる。これからこの流れにすべてを任せるのに、どうしてそんな事をと思いながら、それでもその優しさを黙って受け止めた。 『わたしも、大好きよ』 お祭りの夜のざわめきが遠くで響いている。あんなに遠くから聞こえるざわめきよりも、こんなに近くで聴く彼の声の方がずっと遠かった。 『だからね、亜美ちゃん、』 濡れて重みを増していく体を、細くて逞しい腕が抱きすくめる。熱を持ってやわらかく脈動する体、呼吸。何もかもが近すぎて、戸惑ってしまう。 わたしは続く言葉を待った。待っている間にも、冷えて感覚の乏しくなった体は流れへの抵抗力を失っていく。 耳元で感じた吐息のような声。わたしが死ぬその瞬間まで、決して消えることの無かった、温かい、最後の熱。 『幸せになってほしいよ』
そしていつだって優しくわたしに触れたその腕で、今までおくびにも出さなかった意外な力強さで、残酷な意思で、わたしを岸へと押し戻した。 川岸の丸みを帯びた石に背中を打ち付けて、痛みで一瞬閉じた目を開いたときには、彼の姿はもう殆ど暗い暗い川の中だった。完全に呑みこまれる寸前、確かにわたしを見て、そして言った。
『生きて』
遠ざかっていく黒い闇の僅かなうねりを眺めながら、わたしの心は、そのとき既に死んでしまっていたと思う。
2003年02月05日(水)
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