金魚花火【4】

 「おまもり?」
うさぎが不思議そうに首を傾げる。僕だって首を傾げたい。
レイ。うさぎが生まれる前に一度だけ、巫女服と神聖な空気に包まれた姿を遠目に見た事がある。その姿は子供心にただならぬものを感じたし、自分よりもずっと小さい体が、与えられた運命にじっと耐えてるさまを健気だけど可哀想だとも思った。
そのレイが日本を出る前に息を吹き込んでいったと言う護符を、僕とみちるは日が暮れる少し前に、一足先に神社を訪ねて借りてきた。赤い飾りで縁取られた札の中心に「悪霊退散」と、黒い堂々とした文字で書かれていた。信仰心といったものとは縁が無い僕にも、その札の物理的でない重量感は感じる事が出来た。激しい力が平面の札の中で渦を巻きながら、しかし威圧的ではなく柔らかい「護り」の名に相応しい優しさをも孕んでいる。
みちるは教えられたという手順をこなし、小さく折りたたんだ護符を、同じ神社で買った(身内でも割引はないらしい)御守りの中にしまい込む。霊に対し無防備なうさぎと言う存在を、包み込んで守るのだとみちるは言った。僕はみちるの妹の力を信じるし、護符の力も信じる。なによりみちるを信じている。それでも心臓に染みる悪い水のような不安は拭えなかった。
「転んで怪我をしたりしないように、よ。人がたくさん居るから気をつけてね」
「もう、また子供扱いする! 大丈夫だよ。それくらい」
「分かってるわ。念のためよ、念のため。――さあ、まずはどこに行こうかしら?」
微笑んで話を切り返すと、うさぎはそれ以上不満も疑問も抱かずに御守りを受け取って、祭りの中に溶け込んで行く。
僕とみちるは遅れを取らないようにうさぎのうしろをくっついて歩いた。


 光を見た。懐かしい光だった。ああ、しかもなぜよりにもよって、あの子が彼女の光をまとっているのだろう。
空間という感覚を捨てた目には、すべての物理を超えてその光がよく見える。それにしたって、見たいから見ているのだろうと気付いてはいた。いつもは漠然と世界を見渡すばかりで何かに意識を与えたことはない。
気にしているの? 自分に問い掛ける。
何もかも終わったことなのに。
否。
終わってないから、ここにいるんだ。わたしの中の想いに終わりがないから、わたしは此処から離れられない。そして今も、祭りの夜を眺めている。
『馬鹿ね』
言葉にしてみれば本当にその通り。わたしは馬鹿なんだ。あの頃は、もてはやされもし疎まれもしたこの知識以上に、わたしは馬鹿なんだ。
『元気にしている?』
懐かしい彼女の光に呼びかける。彼女の存在は、肉体と言うくびきを捨てたときに蘇った記憶のひとつだった。自分が生まれるより(それだって今はもう昔の話だけど)もっと遙かな遙かな昔に彼女とは仲間だった。ねえ、今はどんな名で呼ばれているの――マーズ。
合わせる顔も無いけど、久しぶりにあなたの光を見れて嬉しいわ。大嫌いな祭りの夜が、今日は少しだけ優しく映る。
『…………っ!』
突然、光だけの姿で漂うわたしの瞳のない「目」に、射抜くような真っ直ぐな視線が突き刺さる。呼びかける声が聞こえたのだろうか。闇を呑んで溢れかえる人の群れの中で、たったひとり、迷いもなくわたしを見つめていた。うさぎと名乗った昨夜の少女が、距離にしたって決して見える筈のない彼方から、真っ直ぐと「わたし」を見たのだ。
そして屈託なく笑ったあとで駆け出した。慌てて追いすがる誰かと誰かは、重力すら畏れをなす子供の軽やかな足取りには追いつけない。


 「亜美ちゃん、こんばんは」
嫌そうな顔で、亜美ちゃんは木にもたれかかっていた。本当に幽霊なのかな。足もあるし、生きてる人間みたい。そう思ってちょっとじっと見つめてみたら、昨日は気付かなかったことがひとつだけ分かった。
亜美ちゃんの青い着物は。外でずっと雨に打たれてたみたいにずぶ濡れだった。
髪も肌も、水色に濡れて青白く光っているんだ。
「亜美ちゃん、どうして濡れてるの?」
「……何しに来たの」
亜美ちゃんは怒ってるみたいに言った。聞いちゃいけなかったのかな。
「会いに来たんだよ。昨日お兄ちゃんの話したよね? 今日はお姉ちゃんも一緒なんだ。みちるお姉ちゃんは本当のお姉ちゃんじゃないけど、本当のお姉ちゃんみたいに大好きなの。2人とも大好きだから、亜美ちゃんに紹介したいんだ。だから、一緒に行こうよ」
亜美ちゃん、亜美ちゃん。何度も呼んでたら不思議な気持ちになった。なんだか懐かしい感じ。亜美ちゃんが生きてた頃、どこかで会ったことがあるのかな。だったら素敵なのに。
「亜美ちゃん、一緒に行こう。お祭りの日に、ひとりで居ちゃダメだよ」
手を伸ばしたらまた消えちゃいそうだから、あたしは根気強く言った。亜美ちゃんはずっと難しい顔。考えてるのか怒ってるのか迷ってるのか喜んでるのか、あたしには分からない。でも多分最後のはないかな。
「イヤ?」
ぴくりともしないまま、頷かれた気がした。本当に嫌いなんだ。あたしのことも、お祭りのことも。不思議。本当に不思議だ。あたしはこんなにどきどきするのに。
でも亜美ちゃんをひとりで置いて行けない。あたしはその場にしゃがみこむ。浴衣を汚したらママに怒られるなんて、気付いたのは土の上にぺたりと座ったあとのことだった。
亜美ちゃんは少し驚いてた。
でも何も言わないから、あたしたちはしばらく黙ってじっとしていた。
お兄ちゃんたちは、心配してるかな。あたしはまたわがままをして困らせてるんだなと思ったら、少し哀しい気持ちになったけど、でもごめんなさい。あたし、亜美ちゃんと友達になりたいよ。お兄ちゃんたちが心配する理由も知ってる。お兄ちゃんたちは、あたしは何も知らないと思ってると思うけど、子供はけっこう、大人が知ってることは知ってるんだよ。
「『もらわれ』って言うんだって」
あたしが沈黙を終わらせても、亜美ちゃんは表情ひとつ変えなかった。静かにあたしを見てた。
「大人たちはここのことを『もらわれ林』って言うの。」
それが、お兄ちゃんたちが心配していた本当の理由。パパやママが子供だったときから、この林で人が消えたと言う噂は絶えない。幽霊の話もいくつもあって、肝試しをしにくる人も居たし、帰ってこなかった人も居るって。でも噂だから、殆どは家出とか失踪ってことになってる。毎年そんな人はたくさん居るし、そんな噂のある場所もたくさんあるから、この林もそのまま。立ち入り禁止の札が立ってるくらい。
それでもこの町では(本当は引っ越しただけでも)誰かがいなくなると必ず、「もらわれた」と噂する。
あたしは、いくら同じ町にいたって、誰が新しくやってきて誰がいなくなったかなんて分からないことって結構あるんじゃないかなと思ってた。
ただあたしは今になって気になった。少なくとも幽霊は本当にいて、噂の半分は本当だったんだから。
「……亜美ちゃんがやったの?」
どんな答えを期待してたのか自分でも分からないまま、一瞬ためらってから聞いたら、亜美ちゃんは少し笑った。
「そうよ」
どきんと心臓が跳ね上がる。亜美ちゃんの前髪から、雫が滴って、地面に落ちる前に消えた。そのとき初めて気付く。亜美ちゃんはびしょ濡れなのに、亜美ちゃんの足元の土は少しも湿っていない。からからに乾いてる。ああ、やっぱり幽霊なんだ。
「あなたも早く帰らないと『もらって』しまうわよ。」
跳ね上がった心臓が、まだどきどき言っている。怖い。――怖い? 怖いのかな。違う気がした。
「違う」
無意識のうちに言っていた。
「……何が?」
あたしも分からない。でも何かが違う。違うよ。絶対に違う。違わなければおかしい。
だって、噂通りたくさんの人が消えていたなら、それを「もらって」たのが亜美ちゃんなら。本当なら。足りないんじゃないの。足りないから、今でも幽霊をやってるんじゃないの。分からないけど。死んでも死ねないほどの未練があるから、幽霊をやってるんじゃないの、かな。分かんない。ただ、あたしを「もらって」も、亜美ちゃんは救われないことだけは分かった。
「あたしじゃ、ないんでしょ?」
「…………」
「本当に欲しい人がいて、でもその人はもういないんだね」
亜美ちゃんが青い目を大きく見開く。
あたしの成績はいい方じゃない。でも友達を作るのは得意だった。それはうさぎが、人が本当に与えて欲しいものを知っているからだよ、とお兄ちゃんは言ってくれた。
あたし自身はそれが何か分からなかったし、分からなくていいんだよって、お兄ちゃんはいつも笑う。
「昨日、怖くないの?って聞いたでしょ。やっぱりあたし、亜美ちゃんのこと、怖くないよ。」
その哀しさを、あたしは分かる気がする。同じ哀しみを知ってる気がする。同情じゃない。ただ抱き締めてあげたくなった。
驚いたまま身動きひとつしない亜美ちゃんに手を伸ばして、また怒られてもっと嫌われてしまうかもしれないと思ったけど、でも怖くない。背伸びして首に腕を回した。亜美ちゃんは冷たくもあったかくもなくて、それがやっぱり少し哀しかったけど、確かにある不思議な感触に、一生懸命すがりつく。亜美ちゃんはここにいる。
「あたしで代わりになれるなら、あげるよ。あたしを全部あげる。『もらって』いいよ」
亜美ちゃんは黙ったまま、でもあたしの腕の中にいてくれた。消えようと思えば消えられるはずなのに、輪にしたあたしの腕の中にいてくれた。
「……200年以上も昔、許されない恋をしたの」
ぴったりとくっついた亜美ちゃんの体全体がスピーカーになってるみたいに、声は色んなところから響いて聞こえた。声に包まれてるみたいで、あたしは気持ちよかった。
「恋をしてはいけない人だった。でも、彼もわたしを好きだと言ってくれた。――うさぎちゃん、あなたにとてもよく似ていたわ。あなたは多分、彼の生まれ変わりだと思う」
突然ひんやり濡れた感触が、押し付けた頬や額から伝わってくる。不思議な水はあたしの肌をすり抜けるようにしてあたしの中に染みこんで、ゆったりと脳に流れ込んできた。閉じた瞼の奥に、優しく笑う亜美ちゃんの姿が映る。ずぶ濡れじゃない亜美ちゃん。きっと生きていた頃の。その隣には、確かにあたしに似たあたしじゃない男の人が立って、亜美ちゃんに笑い返していた。2人とも幸せそうで、きっと恋人同士なんだなと思う。
これは亜美ちゃんの記憶だ。
色んな場面が次々と入れ替わって、たまに泣いてるけど大体は笑っていた日々が映る。その隣で、同じように泣いたり笑ったりしている彼への優しい気持ちに満ちた記憶。あたしは嬉しかった。亜美ちゃんは生きているとき、こんなに幸せだったんだ。
突然場面が変わって、そこはお祭りの夜になる。
亜美ちゃんと彼は2人で楽しそうに歩いていた。しばらくして川辺に腰を降ろす。とても穏やかな顔で話をしながら、空に咲く花火を見ていた。そして花火の音が止んだあと、2人は手を繋いで川の中を歩いていった。川は深かった。
「……恋をしてはいけない人だった」
亜美ちゃんがもう一度呟いたその声で、あたしの金縛りにあったみたいな体が自由になる。頭の中に流れ込んできていた映像もぴたっと止んだ。
「2人で誰にも咎められない世界へ行こうと約束したのに。彼は最後の最後で、わたしに生きてと言って、そして岸に向かって押したの」
亜美ちゃんの両手があたしの肩に触れる。
「わたしは状況を把握出来ずに、黒い川に呑み込まれていく彼を見ていたわ。やがて通りがかった人たちがわたしを川から引きずり出した。わたしは動けなかった。わたしは彼に捨てられたんだと思った」
そっと体を離してあたしの目を見た。あたしはまた、無意識のうちに「違う」と言っていた。亜美ちゃんは優しく笑う。記憶の中の亜美ちゃんと同じくらい優しかった。そういえば、「亜美ちゃんの記憶」の中に亜美ちゃんの笑顔があるって変だ。もしかして、あたしの中にも「彼」の記憶が残っていたのかな。
「彼の遺体は見つからなかった。数日後、わたしはまた同じ場所から彼を追って川に入ったけれど――今も彼には会えないまま。幽霊となって、わたしはこうしてさ迷っているのに、彼は未練も残さず死んだのよ」
「……違うよ」
わけも分からないまま、でも亜美ちゃんにそんなふうに思っていて欲しくなかった。
亜美ちゃんは微笑みを分けてくれるみたいに、あたしの頬にキスをした。本物じゃないはずの水が、あたしの頬を濡らした。
「あなたの言うとおり、あなたは彼じゃない。」
自分で言ったことなのに、改めて言われるとなんだか哀しかった。あたしはこんなにさみしがってる亜美ちゃんを慰めてあげられない。
「それはあなたのせいじゃないから、あなたは哀しまないで」
心を読んだように亜美ちゃんが言う。
「ただ、」
ごぼごぼと音がして、亜美ちゃんの体をうねる水の塊が呑みこんでいく。

「とてもとても恋しくて、わたしはもう動けない」

昨日、炎だと思ったのはこれだ。まばたきのたびに形を変える水が光を受けて、炎みたいに光ってる。きれいだけど怖い。亜美ちゃんは死んだあとまで、何度この炎みたいな水にころされたんだろう。


『お祭り、誘ってくれてありがとう』


最後に声がした。亜美ちゃんがキスしてくれた頬に手を当てると、まだ濡れている。キスされてない反対側も濡れていた。涙だ。



2003年02月04日(火)
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