金魚花火【2】

 大好きなやさしいお兄ちゃん。お兄ちゃんの手はいつもあったかくて、あたしは大好きだった。あたしが間違ったことをしたら怒ってくれるし、いいことをしたらほめてくれる。あたしが迷子にならないように、いつも手を握っていてくれる。
「うさぎって、ほんとお兄さんと仲良いよね」
「うん。大好きだもん」
お兄ちゃんにヨーヨーを取ってもらってるところで、なるちゃんに会った。
「ふーん。まあ、はるかさんみたいにかっこいいお兄さんだったら、私も大好きになるかな、きっと。」
「でしょ? あっ、ありがとー」
あたしのお願いした通りのピンクのヨーヨー。あたしは喜んで受け取る。
「なるちゃんも、何かリクエストがあったら取ってあげるよ?」
お兄ちゃんは優しく微笑んでなるちゃんを見た。小さいときからいつも一緒で、とっくの昔に見慣れてたなるちゃんでなきゃ思わず恋しちゃうくらいの素敵な笑顔だった。
「私は大丈夫です。実は妹とはぐれちゃって探さなきゃいけないところなんですよ。そういうことだから、ごめんね、うさぎ。そろそろ行くね」
「そっかぁ、残念」
「ほんと、いつまでも手の掛かる妹よ。私がいなきゃ何も出来ないの。――あんたもいい加減お兄さん離れしなさいね」
最後の一言だけ小さな声で、なるちゃんはあたしの耳元にそっと囁いた。人ごみに消えた背中を見ながら、お兄ちゃんが感心した声で言う。
「小さい頃からそうだったけど、ますますしっかりした感じだね、なるちゃん。うさぎも見習わないと」
たった今言われたのと同じ言葉を言われた気がして、あたしは思わずむっとして頭を撫でようとしたお兄ちゃんの手をよけた。
「わかってるもん!」
言って駆け出した。すぐに追いかけてくれると思ってた。でも混み合ったお祭りの中で、まだ小さいあたしの通った道を大きなお兄ちゃんが追いかけてくるのは無理だったみたい。


 空っぽの左手と遠くでちかちかする色とりどりの明かりを変わりばんこに見ながら、あたしは首を傾げた。
「……お兄ちゃん?」
呼べばすぐに応えてくれる、いつもの優しい声は返ってこない。はぐれちゃったんだ。
そんなに走ったつもりはないのに、振り返った途端お祭りはすごく遠ざかってた。
「戻らなきゃ……」
でもなんでこんなとこまで来ちゃったんだろう。神社を囲む大きい林の深み。木と木の間が開いてるおかげで月の光は届くけど、あんなに眩しかったお祭りの明かりに慣れた眼にはこんなのじゃ物足りない。
――そうだ。光。
光を見たからだ。ふんわりほわほわしてて、なんとなく切ないみたいな光に呼ばれたみたいで、だからここまで走ってきたんだ。
あれはなんだったんだろう。





 ――カラン


 ――――カラン


 その、涼しげな音には一瞬気付かなかった。あまりに耳慣れてしまっていた。カランカラン。祭りを練り歩く者たちのどこか物憂げな足音。カラン。


『……迷子?』


不思議に響く声に、うさぎの鼓膜がぎゅっと縮みあがった。耳と心臓は直接繋がっているんだ、とうさぎは感覚で学ぶ。早鐘を打つ鼓動がこんなにも耳に痛い。
「だれ?」
おそるおそる問い掛けたうさぎに、声がふっと笑う。
『はやく戻ったほうがいいわ。早足で、決して振り返らないようにして。』
木々の間から高く低く響いてくる声は優しかった。うさぎを案じる言葉に裏は無いように思える。だからこそうさぎはその言葉には従わなかった。立ち尽くして動けないのは、竦みあがっているからじゃない。その声があまりにも優しかったからだ。
「ね、あなたはだれ?」
突然かけらも残さず消えた怖れの代わりに、純粋な好奇心が問いを重ねる。
影の奥でゆらりゆらりと揺らめきながら、うさぎを誘いこんだあの光が何かの形を縁取る。まるで最初からそこにいたように、ひとりの少女の姿が浮き彫りになっていく過程を見守りながら、うさぎはまた自分の鼓動に耳を傾ける。どきどき、クリスマスの夜みたいな心音。夏の終わりにそんな幻想を抱く。どきどき。わくわく。あなたはだぁれ?
輪郭の曖昧さすら無く、それが当たり前に存在する少女のような姿でうさぎの前に現れたとき、薄暗い林の中でうさぎは目を細めた。眩しがるように。


「わたしは亜美。――あなたこそ、誰?」


 慣れずに手間取る初々しさやはしゃいだ心を投影する浴衣とは違う、ごく自然に着こなされた青い着物の少女は、顰めた眉の下からうさぎを見つめる。
しかしどんなに自然に振舞い、うさぎに理解の出来る言葉で話していたとしても、その少女がこの世のもので無いのは明らかだった。
「あたし、うさぎ」
臆せず応えるうさぎに、亜美と名乗った少女はまた眉を顰める。
「危機感の無い子ね。怖くないの?」
問う亜美にうさぎは不思議そうに首を傾げた。
「亜美ちゃんが?」
「あみちゃ……」
「亜美ちゃんは怖くないよ。キレイ。どうしてひとりで居るの? お祭りなのに」
「…………」
うさぎの言葉ひとつひとつに、亜美は驚きや戸惑いで返す。人がただ生きているだけで磨耗していく純粋さを、まだ原石のまま心に留めているうさぎには、そんな彼女の心の揺れは理解出来ない。
「亜美ちゃんは幽霊なの? 幽霊はおまつり嫌いなのかな。嫌いじゃないなら一緒に行こうよ。あたしのお兄ちゃんもいるよ。すごくかっこよくて優しいんだ。ヨーヨー取ってくれるよ。亜美ちゃんは何色が好き? やっぱり青? その青い着物、キレイだね。あ、目も青いんだ。あたしと一緒だね」
にこにこ笑って、背後に並ぶ祭りの明かりを指差す。亜美は思わず指し示されるままその先を眺めた。
「行こうよ、亜美ちゃん」
うさぎが亜美の青白い手を掴もうと手を伸ばしたとき、亜美は鋭い目つきでそれを制した。
「やめて」
うやむやになりかけていた存在の違いが明らかになる。亜美の体は真っ青な炎に包まれ、うさぎが今まで見た事もないような儚い色の光になって消えた。

『祭りの夜は嫌い。青も嫌い。……あなたも嫌いよ』

生まれて初めての激しい拒絶を受けて、うさぎは身動きひとつ出来なかった。なんで嫌いなんだろう、と思いながら、遠くに自分の名前を呼ぶ兄の声を聞く。

2003年02月02日(日)
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