空に浮かぶ森【17】

 「ああ待って、アタシじゃダメかな?」
マーキュリーの力で一面のスケートリンクになった湖の上で、ヴィーナスがどこからともなく用意した――素粒子がどうのと言う怖ろしい単語が聞こえたが、亜美は聞こえなかったことにした――シューズを履いてるセレニティにまことが声をかけた。そばに立って、当たり前のように手を伸ばそうとしたジュピターの方が、一瞬驚いた顔をする。
「え?」
「アタシがパートナーじゃ不安かな? セレニティ。」
そんなジュピターや、あからさまにプレッシャーを送ってくるヴィーナスやマーズたちも無視して、まことは更に言った。
このとき彼女が即答した理由は、本人とうさぎにしか分からなかった。
「よろこんで」
満面の笑顔で差し出された手をとったセレニティは、単純に、名前を呼ばれたことが嬉しかったのだ。

「上手いのね、まこと。ジュピターと滑ってるときみたいに、安心して滑れるわ」
「それは良かった」
チェンジを繰り返す気まぐれなセレニティの滑りにも、まことは柔軟についてきた。体じゃない、もっと根深い器官――例えば魂と呼ばれるような――が覚えているそのステップ。
力強いストロークは、セレニティにとっても馴染みの深いものだった。
軽やかにエッジに乗りながら、その滑らかさとは程遠いぎこちなさで、セレニティが微笑む。
「ジュピターは……他のみんなもだけれど、心が……少し遠いところにある気がするの。きっと、自分の星が恋しいのね。それなのに使命があるから、月から離れることが出来ない。」
やさしく切り刻まれる風の残骸に隠して、セレニティがかなしみを零した。
「みんな、きっと私に怒ってる。だから私の名前を呼んでくれないんだわ。あなたのようには。」
まことは殆ど意識もなく、それを拾い上げる。
「そんなことないよ」
言ったあとで、どんな言葉なら上手く伝えられるかと考えたけど、考えがまとまるより先に言葉がぽろぽろと溢れていく。
「間違いないよ。……いつだって、大好きだった」
哀しみじゃない――清らかな切なさで、泣きそうだった。
「使命を憎んだことはないんだ。本当に、絶対にない。立場を悔やんだことならあるけど。」
見た事もない表情にセレニティが目をしばたたかせている間に、まことがセレニティの体を軽々と抱き上げる。
「立場?」
シューズ越しに伝わってきた重い反発を失って、セレニティは自分が飛んでいきそうなほど軽くなってしまった気がした。でもそんなささやかな不安を消し去るように、まことが強くその体を抱き締める。
「そう。セレナのそばにいる為に、アタシ―――いや、彼女達には色んな約束事があったんだよ。友達になるなんて許されないことだったんだ……と、思う」
なんて不自然で不自由な言葉、と、まことが自分で笑う。胸の中でセレニティは、その振動に安心していた。自らも腕を回し、緩むスピードがやがて停止するまで、ずっとそうしていた。
「ジュピターのこと、なんでも知ってるのね」
「ああ、まるで自分のことみたいに良く分かるんだ。ジュピターは、上手く伝えられなかったみたいだね。代わりに謝るよ。不安にさせてゴメン」
自分だって上手く伝えられたか分からないけど、優しく強く回された腕は、少しくらいは伝わったことの答えかもしれない。
「だからもう疑わないでやってよ。間違いなくあんたが好きだったジュピターのこと」
セレニティの返事が返るより早く、物凄い勢いで滑ってきたヴィーナスの拳がまことの頭を捉えたのは――言うまでもないだろうか。


2003年01月20日(月)
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