空に浮かぶ森【15】

 マーズがフォボスの軌道を辿り、やがて目の前が開け大きな湖の前に着いた。
その場所で途切れた力の波紋を感じ取りながら、マーズが辺りを見回す。此処で途切れていると言う事は、此処に居るか、此処で何かがあった、と言うことだ。
「……申し訳御座いません、マーズ殿」
「フォボス?」
ただならぬ気配を察して、マーズの背が冷えた。振り返って、今にも泣き崩れそうな表情のフォボスと目が合う。
「……何があったの?」
「それが……」
マーズの肩の向こう側に弱々しい視線を投げかけるフォボス。無言のまま静かに振り返ったマーズの指が震えていた。
さっきまでは確かに無かった筈だった。そんな判断もおぼつかないくらいにふらつく頭が、横たわるその姿を認識した。
「プリンセ、ス……?」
静かに横たえられた小さな体。駆け寄ろうとして、出来なかった。
「……嘘」
地面に足をつけてる感覚も無いままで、ゆっくりと、怯えた子供のような足取りで近寄り、小さな頭の横に両膝をつく。閉じた瞼を縁取る長い睫毛は風に少し揺れただけで、唇は力なく、わずかに開いていた。
「プリンセス?」
こわごわ頬に手を伸ばしたとき――その手に触れるものが暖かいか、それともそうでないか、彼女の運命を決定付ける重大な問題に触れようとしたとき、

 どんっ!!

隙だらけになっていたマーズの背に大きな衝撃。突然のしかかった重みに、流石のマーズも抵抗出来ず前にのめり込んだ。セレニティの上に倒れこみそうになる直前、慌てて耳の脇に手をつき、辛うじてそれを阻止した。
頭の中も視界もぐるぐる回ったマーズの眼前に、どアップで映ったセレニティの白い顔。予告なくその両の眼が開いた。
「……な、なっ……!」
「ひっかかったわね、マーズ」
背の重みを片手で支えたまま、吹き出して笑うセレニティの暖かい吐息を頬に感じながら、マーズの思考が停止する。
「びっくりしたぁ?」
耳元で囁く呑気な声に、なんとも言えない感情が湧きあがる。それは目の前で無邪気に笑う少女に対しても向けられているものだが、仮にも主、ぶつけられる筈もないので取り敢えず背にもたれる少女にだけ投げつける事にした。
「――あんた、焼き殺して良い?」
「いやいや、ダメだよそれは、勿論」
額に汗を浮かべながら、間違いなく冗談でないその台詞を必死でかわし、うさぎがマーズの背から降りた。
「仕返しなのよ、マーズ」
手をどけたマーズと一緒に上半身を起こしながら、セレニティが言う。
「は?」
皇女相手だと言う事すら忘れて、眉を顰め聞き返した。
「し・か・え・し。貴女が酷い冗談を言ったから、私も酷い冗談で仕返したの。私の気持ち、分かった?」
セレニティは、初めて覚えた単語のように誇らしげに発表する。
「貴女の入れ知恵ね」
疲れた息を吐き、作り物みたいに綺麗な空を仰いだ。うさぎがひょこっと顔を出し、マーズの視界の空を覆う。
「もひとつ入れ知恵してあげる。あのね、ケンカしたら、ちゃんと謝らなきゃいけないんだよ。」
子供をあやすような口調に、マーズがもう一度溜息をつく。
(すっかり嵌ってしまったわ。このふざけた罠に)
でも、彼女達の言う通りかもしれない。確かに酷い冗談だった。
(……半分は本気だったと言ったら、もっと酷い“仕返し”を受けたのかしら)
考えて、思わず失笑する。
「申し訳ありませんでした、プリンセス」
地べたに座り込んだまま、マーズがぺこっと頭をさげた。セレニティは一瞬きょとんとしてから、嬉しそうに微笑んでマーズの手に触れる。
「仲直りね、マーズ」
なんて単純で易しい儀式なんだろう。たったこれだけの事で、この笑顔が見られるのか。不器用な普段の自分を思い返して、また可笑しくなった。
「はい、よくできました」
マーズの頭を遠慮無しに撫でたうさぎの手は、セレニティと同じ温度だ。
「ありがとう、うさぎ」
肩越しに微笑む。自然と出た言葉の意味を、深くは考えない事にした。きっと、自分でもよく分ってない感情が、一番正しい言葉を選んだのだろう。
「覚えててくれたんだ、名前」
うさぎは嬉しそうだった。
「ねえうさぎ、私には? 私には?」
「セレナもよくできましたぁ」
「うさぎもねー」
互いの頭をがしがし撫で合いながらじゃれる2人から、マーズが視線を移す。
「フォボス、中々迫真の演技だったわよ」
「……演技だとお思いですか? こんな悪戯に加担して、貴女のお怒りを買う事を考えたら気が気じゃありませんでしたよ」
情けない笑顔に、マーズがくすりと笑う。彼女がこんなに表情豊かにしているのを見るのは珍しいなと考えて、それは自分も同じかもしれない、と思った。
「ごめんねー、フォボス。我侭言って」
会話を聞いて、うさぎが頭をかきながら誤魔化し笑いをする。
「いいえ、マーズ殿がうろたえると言う、世にも珍しいものを見せていただいたのですから、遣り甲斐はありました」
「……っ、フォボス!」
片目を閉じて答えたフォボスに、うさぎとセレニティは顔を見合わせて笑い、マーズが耳まで赤くする。

 「貴女たちのお友達も大したものね」
すぐ側にまで来た自分達にすら気付かない彼女たちの、大騒ぎの光景を眺め、ヴィーナスが心からの尊敬の念を込めて言った。
「暗殺者と打ち解けるより難しいのよ、彼女。プリンセス以来の快挙だわ」
真顔で何度も頷く三人の姿がなんだか可笑しくて、亜美たちがくすくす笑う。楽しげな少女たちの笑い声につられたように。

2003年01月18日(土)
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