空に浮かぶ森【9】

 間違いなく見えた。あれはマーキュリーだった。
セレニティは一瞬だけ頭上高くに覗いたマーキュリーの姿を追い、道ならぬ道を走る。
(何かに狙われたみたいだった。……大丈夫かな、マーキュリー。)
心配に胸を締め付けられながら、不安定な足場を転ばないように進んでいった。ふと、頭に疑問がよぎる。
(……マーキュリー?)
重たくのしかかる違和感に意識をとられ、足首が飛び出した樹の根に掛かった。咄嗟に前に伸ばした腕が先に地面につき、続いて膝を打つ。鋭い痛みと、スッと伸びた線状の傷から血の珠がうっすらと浮かんだ。けれどその痛みを感じるよりも先に、セレニティを矛盾が襲う。
「あれ? ……私、今までマーキュリーと一緒に居たんじゃ……」
樹の根元にうずくまったまま、理解できない現実に混乱する。
そのとき、額を痛みが走り抜けていった。
痛みは熱になり、熱はうねりを伴いながら頭の中に染みわたっていく。
(……なに、これ……)
物体として確かな存在ではなく、「感覚」としか言いようのない何かが、体中に満ちていくのが分かった。爪の隙間から髪の毛先までがぴりぴりと何かを「感じて」いる。
そしてそれは確信になる。

「…………誰か、居る」

口に出して言ったのと同時に、膝をついたままのセレニティの眼前に彼女は現れた。
眩しいくらいの金色の髪に、柔らかな水のような瞳の色。木漏れ日の中に立っていてなんら違和感もない、ひたすらに善良な人間に見えた。(もっとも、疑うことを知らない彼女の瞳には、大抵の人間は善良に映るのだが)
まばたきも忘れ、目の前の少女に見入る。
少女は驚いた顔をしていた。多分自分も同じような顔をしている。

「…………今、貴女を感じていたわ」

大きく見開いた瞳で見上げた少女に、声をかけられた少女も、戸惑いながら頷いた。
「あたしも……貴女を感じたから、ここに来たんだよ」
驚き、戸惑い、迷い、喜び、少しだけ切なく想い、少女―――――うさぎは、セレニティに微笑んだ。


セレニティとうさぎの距離が近づいてきたとき、惹かれあう同じ星の力が、そのことを彼女に教えてくれたのだ。
うさぎが、その気配を追って無意識のうちに駆け出したのは、当たり前の好奇心だったけれど、こうして目の前にしてみると少しだけ後悔してしまう。

淡い色彩に、真白の似合う無垢な表情、どこまでも幼く儚げで、そして傷つき易そうなお姫さま。昔の自分は、こんな風に誰かの眼に映っていたのだ。

「…………たしかに、貴女は戦えそうなタイプじゃないね」
小さく呟いて、過去の悲劇に思いを馳せた。あのとき、生き残る勇気を持てなかった自分の弱さが、今、目の前に在る。
自分がもっと強ければ、と、あの瞬間を何度も思い返した。でも目の前の姫君にはとても無理そうだ。
そんなうさぎの複雑な思いとは対照的に、セレニティはただ純粋に、うさぎに会えたことを喜んでいた。
「ねえ、私たち、少し似ていない?」
立ち上がり、うさぎの頬に手を触れたセレニティは、新しいおもちゃや本を与えられた子供のような嬉々とした表情を浮かべている。
うさぎは困ったように笑いながら、自分より少しだけ低いところにある薄い紫の瞳を見つめた。


「どうかな、似てるかな?」



2003年01月12日(日)
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