空に浮かぶ森【5】

 呼びかける声は、再度響いた銃声に郷愁と共に掻き消された。
「とりあえず、森を抜ける道を探しましょう! ここは危険よ!」
心に浮かんだ何故か切ない気持ちを振り払うように、大きな声を張り上げた亜美に応え、レイがうさぎ―――いや、セレニティの手を引いて立たせる。
「行くわよ、走れるわね?」
「え?」
「え、じゃない! 早く!」
聞いておきながら有無を言わせなかったレイは、走り出しながら回想するように思った。
掴んだ腕の細さと、そこから感じる温かな温度が、かつてこの胸に炎を宿したのだと。
「マーズ、どこへ行くの? あたし、もっとここに居たい」
「馬鹿言わないで、危険な場所よ」
「危険? 地球は平和な国だわ」
「地球はひとつの国じゃないし、平和でもないし、もうひとつオマケに地球かどうかも不明よ」
「何を言ってるの? ヴィーナス」
「……そんな風に呼ばないでよ。なんか色々複雑な気分になるわ」
彼女がプリンセスであると言う確証もなく、けれど妙に確信だけが募るなか、美奈子は本当に複雑そうな顔をした。上手く走ろうとしても、足のもつれるような感覚に捉われ、眼の前で揺れる銀髪に心がざわつく。
彼女にどう対応していいのかも分からない。
「ヴィーナス、どうしたの? ……みんなも、やっぱり今日はなんだか変だよ。マーズ、放して。お願い、話がしたいわ」
真摯な眼差しのセレニティの訴えに、眉をしかめながらもレイは立ち止まった。あとを走っていた他の3人も、仕方なく足を止める。レイが掴んでいた手を解き、セレニティが口を開こうとしたとき、強い風が吹いた。

丁度ここへ来たときのように、視界を塞ぐほどの突風が音さえも呑みこんで彼女たちを吹き荒らしていく。

「今度はなにっ!?」
腕で巻き上がる小石や葉を避けながら、美奈子が目を凝らして風の中心を見詰めた。彼女の疑問に答えられる者はなかったが、風は思いのほかすぐに凪いでいった。やがて風が止み、辺りがまた静けさを取り戻す。セレニティを包み込むように庇っていたまことが腕を開くと、そこから顔を覗かせたセレニティが、いつの間にか現れた六人目の人物の気配にいち早く気付いて声をあげた。
「フォボス!」
さらさらと揺れる真っ直ぐな黒髪の女性は、風の起こった地点の中央に立ち、レイに視線を寄せた。レイはその射抜くように鋭い眼光に覚えがあった。記憶を漁るまでもない、答えならたった今、セレニティが言ったのだから。
「……フォボス?」
ためらいがちにその名を呼ぶと、フォボスは全員を見回し、それからその場に片膝をついて頭をさげた。
「マーズ殿、ご無事でしたか。皆様方も。なによりです」
レイは目を閉じて、溜息をつく。
「……なんか、本格的に迷走してる気がするわ。フォボス、悪いけど、あたしは多分、貴女の主人の方じゃないわ」
「お言葉の意味を察しかねます」
「つまり、この辺りのどこかに、あんたの主の方のマーズがいるってことだ。……ここにプリンセスがいるんだから、きっと居る」
気まずそうにセレニティから目線を外したままで、まことが吐き捨てるように言う。事態を理解は出来ないが、出来ないと言っていつまでも逃げているわけにはいかない。たとえ信じられないような出来事でも、今眼の前で現実に起こっている。
「……つまり、あなた方はわたくしの知っている四守護神殿ではないと?」
「ま、そういうことね」
疑いと確かな違和感を平行して感じているのか、心底困ったような顔で自分の顔色を伺うフォボスに、レイは溜息をつきつつ頷く。自分が納得できていないものを相手に納得させるのは、少し心苦しい。
「プリンセス、貴女は……プリンセス・セレニティで間違いありませんか?」
レイの辿れる限りの記憶では、フォボスは無表情でいることの多い女だった気がするが、さすがにこの事態には戸惑いを隠せないようだった。
「あたしはセレニティだけど……。ねえ、なんの話をしているのか、まるで分からないわ。 どういうこと? それに、ディモスはどうしたの?」
「ディモスは万が一に備えムーン・キャッスルに待機しております。精神をリンクさせているので、この状況は伝わっていると思いますが……」
「この状況って?」
レイの問い掛けに、反射なのか改まった姿勢をとるフォボス。
「わたくしにも詳しいことは……。プリンセスのお姿がパレスから消え、四守護神殿がその捜索にあたっていたところまではいつも通りだったのですが」
「いつも通り、ねえ……」
苦笑いを浮かべて自分を見る美奈子に、セレニティは邪気もなく笑い返した。
「いつのまにか四守護神殿のお姿も見当たらなくなり、不安に思ったわたくしとディモスで、マーズ殿の気配をトレースさせていただき、その痕跡を辿りました」
「へえ、そんなことが出来るのか」
「わたくし共は同じ星の加護を受け、且つ同じ巫女族でしたので。……ですが、なぜここに出たのかまでは分かりません。確かに火星の守護の力を感じたのですが……」
「……成程。つまり、“マーズ”とレイちゃんの軌跡が混線したのね」
話を進めるほどに混乱した様子のフォボスとは対照的に、亜美は納得の行った顔をしていた。同じフィールド上に、本来ふたつとない筈の「輝き」を持った人間が2人、存在しているのだ。目で見るよりも「感じる」者には、余計に混乱する状況なのだろう。
「フォボス、あなたはムーン・キャッスルから来たと言っていたわね。と言うことは、帰る方法もあると言うことよね?」
「ええ、勿論。その為にディモスを残してきたのです。わたくし共を媒介にテレポートしていただければ、元の場所に戻れます」
「……それじゃあ、アタシたちが元いた場所に帰る手段としては使えないってことか」
「そのようね」
「ま、でも良かったよ。少なくともこの子は、無事に帰れるんだから」
「ジュピター?」
にこっと微笑んで頭を撫でたまことを、セレニティは不思議そうに見上げる。既に「過去の記憶」としてセレニティやフォボスの存在を「知って」いる彼女たちには幾らかの察しがつくこの状況も、「未来」のことをまだ知らない者にとってはまるで理解の出来ない状況なのだ。それに、お世辞にもセレニティは察しの良いタイプではなかった。
「……そっか、まだちゃんと言ってなかったね。てゆっか、なんて言ったらいいか分からないんだけど……」
まだ自分をジュピターだと思って疑っていないセレニティに説明をしようと口を開くが、何をどう説明すれば良いのかが分からないことに気付き、すぐに言葉に詰まった。見かねた美奈子が言葉を継ぐ。
「あのね、プリンセス、あたしたちは……えっと……。レイちゃんパス」
「はっ!? なんでいつもややこしいことをあたしに押し付けようとするのよあんたはっ! ってことで亜美ちゃんパス!」
「……と言われても……」
やっぱりすぐに言葉のつかえた美奈子、早々に放棄するレイ、最後の切り札と言わんばかりに話を振られた亜美だったが、あまりにも純粋な表情で自分を見つめるセレニティに、言葉が浮かばない。彼女は、自分たちを「前世での四守護神」だと思っている。今のこの状態で、自分たちが彼女にとってはあくまで見ず知らずの人間であることが分かったら、きっと不安になるだろう。
「マーキュリー?」
「私たちは……」

誤魔化し方も思い浮かばないままで亜美が口を開いたとき、再度、銃声が森中に響き渡った。



2003年01月08日(水)
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