猫飼い【11】

 ボートは下ろす手はずをすべて整えられた状態でそこにあった。近くにはそれに乗る権利を争ったらしい者たちが折り重なって倒れている。
見苦しいけれど、ロビンは彼らを褒めてやりたかった。頬に強く刺さる雨を避けながら、ナミを乗せたボートを慎重に下ろす。
自分もそれに飛び乗ろうとしたところで、肩口にきらりと光るものを見た。
ロビンは咄嗟に身を返し、振り下ろされた剣は標的を失って船のへりに刺さる。浅く裂かれた肩の痛みを感じる前に、船は何度目とも知れず大きく揺れてロビンを海へ投げ出した。
「…………っ!」
高くうねる波の狭間に叩きつけられ、水を飲み、散らばる船の破片を無意識のうちに掴みながらロビンは、ボートに乗った小さな背中が遠ざかっていくのを見た。
――そうよ、それでいいの。
無事岸までたどり着けますようにと、願いながら目を閉じた。こんな嵐の中、まして自分は海の神にすら嫌われた身。それでも願いが届くように、強く想った。
どうどうと耳を穿つ激しい波の音。力ない手が木片からすべり落ちる。
悪意を持った大きな力に足首を捕まれた気がしたその瞬間、声がした。
「こっち!」
背後の声に、うっすらと瞼を持ち上げて振り返る。
「…………!」
「つかまって! 早く!」
ナミが身いっぱいを乗り出して、小さな手を差し出す。つかめるわけはないと思った。それでもどこからそんな力が湧いたのか、必死で手を伸ばしていた。あんな小さな体に、すべての力を奪われたこの体を引き上げられるわけはないのに。
「もうすぐだから、諦めないでっ!!」
なにが、と思った次の瞬間それは来た。大きな波のうねりが、ロビンの体を力強く押し上げ、握り合った手を頼りにボートに倒れこむ。なだれ込んだ2人の上を波が通り過ぎた。
ナミはロビンを押しのけてすぐに立ち上がりボートを漕ぎだす。ロビンは虚ろな目でその背中を眺めていた。なんて自信に満ちて進むのだろう。荒れ果てた海の中一本の真っ直ぐな活路が、光を帯びて見えているかのようだった。



 嵐は嘘のように遠ざかり、海の淵に夜明けが迫っていた。
「助けられたわね」
「これで貸し借り無しよ」
悪戯の成功した子供みたいに、にやりと笑う。疲れ果てているはずなのに、ロビンが感じられたのは心地良さだけだった。笑顔は自然と浮かぶ。
「そうね」
「もうすぐ島、見えてくるはずなんだけど」
海図と前方を交互に見ながら言うナミに、今更ロビンは目を丸くした。
「いつの間にそんなもの……」
「あら。私は泥棒よ、忘れたの?」
今度はひどく大人ぶった様子で笑う。
「そうね、そうだったわ」
ロビンはもう、この子が何を言っても信じるだろうと思った。そして受け入れ従うだろう。
ロビンはこの小さな女の子に、今更はっきり恋をしたのだ。
「ねぇ、泥棒猫さん。私と一緒にこない? 私は世界を見に行くから、あなたの航海術があれば心強いわ」
穏やかな気持ちでロビンがナミを見詰める。ナミは困った顔をしたけれど、その顔も穏やかだった。頬にやわらかく朝陽が差し込む。
「ごめんね、ご主人さま。私やらなきゃいけないことがあるの。」
「そう。残念だわ。」
「そしてそれが終わったら――今度は夢を叶える為の旅に出るのよ」
「素敵ね」
心から思った。別れを告げられているそのさなかでも。
最後にキスをするぐらいは許されるかと思ったけれど、もっと素敵なことを神さまはロビンに許してくれた。
「そのときは、一緒に行ってもいいよ。」
驚くロビンを猫の目で見つめたあとで、瞼を閉じて、ナミがロビンに口付ける。そして首に腕を回し、笑い声みたいな声で囁いた。
「世界を見せてくれるなら。一緒に行ってもいいわ」



 やさしい陽射しと目の覚めるような青空の下で、ロビンは目を細めた。それなりに長くなった人生の思い出の中で、数えるほどしかないきらきらした日々のひとつを思い浮かべて。
「今日はいい天気ね、航海士さん」
隣で風を浴びてる少女が上機嫌なことからもそれは間違いなかった。もちろんここは、1秒先に天変地異が起こる偉大なる海。確かなことなんて何もないけど。
「うん、多分ね。今日はこのまま晴れると思うわよ。――って、だから、航海士さんはやめてってば!」
頬を膨らませて、ナミはロビンを見上げた。10も年下の少女の仕草は、それでなくともかわいいと言うのに、ここ最近のナミはロビンに対して目に見える信頼を寄せて甘えてくる。
撫でたくなるのを我慢して、ロビンはナミに微笑みかける。少しの悪戯心を込めて。
「じゃあ、泥棒猫さん」
「いやいやそうじゃなくて、根本的に違うんだってば!」
「ふふ、ごめんなさい。――ナミ」
「そうそう。それでいいのよ――ね、ご主人さま?」
「……――え?」
にやっと笑いながら身を翻すナミの背中に、ロビンは思わず目を丸くする。
ナミはにゃーとひとつ鳴いて、笑った。

2000年02月15日(火)
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