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■ 猫飼い【8】
はやる心を抑えいつも通りを装って、それでもいつもより少しだけ早く朝食を切り上げて部屋に戻れば、扉を開けるより前に聞こえてきた小さな笑い声。 不審と不快感が一気に自分を染め上げたのが分かった。 ためらう指を伸ばしてドアを開ければ、笑顔のナミがぱっと振り返り、隣の男もおかえりなんて馬鹿げたことを言う。 「何してるの?」 『航海術のお勉強』 予期せずハモったことがおかしかったのか、2人は声を立てて笑い合った。ロビンはこれっぽっちだって面白くなかった。 「不用意に出入りしないで。怪しまれたらどう責任とってくれるの?」 「ちゃんと周りの様子は伺ってきたぜ? 隠密が得意だって言っただろ」 「ねー、これはどういう意味?」 「これ?これは……」 「やめて。出てって。もう来ないで。」 「おーっと」 猿じみた笑い声。 「悪いな。おまえのご主人様怒らせちまったみたいだ。怖いから俺もう行くよ」 不服そうなナミの声にはどちらも取り合わず、男はロビンが開いたドアをするりと出て行った。 「ちょっとご主人さま、せっかくいいところだったのに」 高さの合わないデスクいっぱいに、練習用に彼が出したのだろう海図やコンパスが拡げられていた。ナミがそれを楽しげに見てたのかと思うと、ロビンは苛立って仕方無い。 ついつい口調も荒くなる。 「警戒心を持ちなさい。誰もが味方じゃないことくらい分かってるでしょう?」 「別に、あんたを信じてないのと同じくらい、あいつだって信じてないわ」 ナミはナミでムッとして、売り言葉に買い言葉。 「そう。」 切るように鋭い一言で会話を打ち切ったのはロビンだった。 なだめて引き下がれるほど大人じゃなかったし、感情をぶつけて後悔したり楽になったりできるほど子供でもなかった。 ナミは言い足りなかったかのように口を開きかけたけど、ロビンが相手になる気がないことを察して頬を膨らませ黙り込んだ。こちらもまた、大人で子供。 無言のまま、掠めてきたパンや果物をデスクに置く。海図やメモの取られた紙はわざとらしく下敷き。 ナミはどちらにも気を留めない素振りでそっぽを向いた。 ロビンは食べなさいとは言わず、当然ナミも手を出さない。 追いやられてふわりと落ちたメモに、他にやりどころのない視線をロビンが送る。 見てみれば偏差(バリエーション)や自差(ディビエーション)の関係式を始め、基本ではあっても子供に教えるには不適切な説明が小難しい計算式と共に書かれていた。 「暇つぶしのつもりかしら」 メモを拾って呟けば、ナミが唇を尖らせる。 「ちゃんとした授業よ。私が理解できてないとでも思ってるの?」 「理解できてるって言うの?」 「こんなの基本でしょ。ほとんど知ってたもん。」 「冗談ばっかり」 ふっと嫌味に笑う。ぶり返すケンカには、もちろんナミだって望むところ。 「あんた絶対友達いないでしょ」 「いないわよ。それが何か?」 「きれいな顔して性格悪いし、寝顔はかわいいのに怒ると怖いし、にこにこしてたかと思えば哀しそうだし、すぐ怒るくせにめちゃくちゃやさしくて、ほんと意味が分かんない」 早口で飛び出すナミの言葉に、ロビンは最初こそ言い返そうと口を開いたけれど、まくしたてられた聞き覚えのない単語に驚いて思わず黙って聞いてしまう。 「……それ、誰の話?」 「あんたよあんた。今更とぼけないでよ」 「いえ、ちょっと、あまりにも普段聞かされた評価と違うものだから……。その表現で浮かぶ人物像が、客観的にはなんだか、」 「子供っぽい?」 「というか、普通の、ひとみたい」 「ふつう?!あんたどんだけ前向きなのよ、全然ふつうじゃない。すっごいめんどくさい。友達やってる方の身にもなってよ」 「だって、そんなあからさまな喜怒哀楽を自分が持っていたなんて……ちょっと、今なんて言ったの?」 「え、だからふつうじゃないって…」 「違うわ、そのあと」 「めんどくさい?」 「そのあと」 「友達やってる方の身にもなってよ?」 「それ。誰の話?」 「だから私。あんたって、ちょっと頭も悪いよね」 「……それも、言われたことがないわね」 「なにそれ、自慢?」 けらけら笑う姿は悪戯だけど無邪気で、他意がないことを告げてくる。 率直な幼い眼差しには、少なくともこの女の子には、自分がそんなふうに見えているのだ。 なんだか不思議で、その目に映る自分をもっと見ていたくなる。次はどんな顔をするだろう。今まで知りもしなかった感情で。
2000年02月12日(土)
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