読書記録

2006年05月17日(水) 西行花伝         辻 邦生


願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃


有名な句を残して西行が入寂したのは陰暦二月十六日、釈尊涅槃の日だというのは有名な逸話である。行年七十三。


西行の弟子とされる民部省の役人藤原秋実が西行の死後、師のゆかりの人々を訪ねていくかたちで物語は進められている
天皇と上皇、関白と左大臣の争いといわれる保元の乱における西行の苦悩も書かれている
西行と桜というあまりにも美しい取り合わせは、それゆえ悲しい・・のだ


『西行花伝』はとりかかるまでに十年近くかかった。
吉野を歩いたり、紀ノ川と辿ったり、白峰にいったりした。書き出してからも文字どおり重い荷を担ぐ思いをした。
西行の内面の成熟と、摂関政治から武家支配に変わってゆく時代の崩壊過程とを、焦点の深いレンズで一挙に撮影するのに似た手法で書きたかった。全体を単一の一人称でも三人称でもなく、一章ごとに語り手を変え、内側と外側を合わせ鏡のように書いたのはそのためだった。
摂関家の内紛も、源平の盛衰、日本人の了解の射程のなかにあることを前提にして、わざわざそれを詳細には書かず、時代のどよめきとして、人物たちの周辺に配置した。しかし真の主題は美と現実の相克であり、とくに侍賢門院と西行の恋、崇徳院と西行の対決のなかに、それがあぶり出されるように書きすすめた。私自身が現実を超え、美の優位を心底から肉化できなければ、この作品を書いても意味がない━そんなぎりぎりの地点で生きていたような気がする。〈作者・・・まえがき・・・)


西行は厳格な戒律も、高遠な説教も、深刻な思索も要求しなかった。ただあるがままで、一切を放棄し、森羅万象(いきとしいけるもの)を大円寂の法悦に変成すること━西行が望むのはそれだけだった。そのとき、無となり透明となった我が身の奥から、真如が輝きはじめる。
春になると花が咲き、秋に月が澄む。そうした森羅万象のたたずまいが西行の心をたまらなく弾ませる、心を浮きたたせる。かつては桜が西行の心を物狂わせたが、いまでは万物が枯れる晩秋の侘しさも雪の降りしきる冬の山里も西行の心をしみじみとした嬉しさで満たしてくる。西行はこの心の弾みをつねに保つことを望むのである。
西行の説いたのはそのことだけともいえる。真に己れを捨て、己れが透明になるとき、己れは花であり、月であり、山であり、海なのである。
それは言葉で言うことではなく、全身で、実際に、そうなることなのであった。


私は歌を詠むとき、仏師が仏像を作るのと同じ気持ちになる。歌のあらわす相は如来の真の御姿だと言っていい。歌が自分から生れたものだという気持がなくなっている。たしかに私が詠み出した歌ではあるが、歌がみずからの姿となった途端、それはもはや私のものではない。
仏師が仏像を彫る。仏師の手が仏像を作る。だが、仏像ができあがったとき、仏像はもはや仏師のものではなく、御仏の姿としてそこにある。
歌とて同じだ。歌も私から離れ、歌そのものとしてそこにある。


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