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2007年07月06日(金) 言い訳する人

向かいの席の同僚がさっきからもう十五分も、社員さんを相手に「えー、でも」「だって」を繰り返している。彼女が応対した顧客からクレームが入ったらしい。
「……って先方はおっしゃってるんだけど」
「うっそー、私、これこれこうですってちゃんと説明しましたよお」
「でも、お客様はそんなふうには解釈されてなかったわよ。それってあなたは説明したつもりでも、正しく伝わってなかったってことでしょう」
「けど、あちらもハイって言ってましたし。そしたらフツー、理解してくれてると思うじゃないですか」
「いつも言ってることだけど、電話を切る前に内容の復唱はしたの?」
「してません。まさかそんな思い違いをされてるとは思いませんでしたもん。ええええ、それって私のせいですかあ!?ちゃんと伝えたのに」

人のふりを見て「自分はああはなりたくないな」と思うことがときどきあるが、ミスを指摘されたときに言い訳を並べたてる姿もそのひとつである。
それは失敗そのもの以上に信頼を失う原因になるような気がするのだ。誰それさんがこうしたから、ああ言ったから、私の責任じゃない。本人はなんとか自分を正当化しようとしているのだが、言葉を重ねれば重ねるほど聞いているほうは鼻白む。「この人にはまかせられないな……」と思うようになる。
それになにより、いい年をした大人が「私が悪いんじゃない」を示そうと躍起になっている様は見苦しいじゃないか。私だったらそんなみっともない真似は頼まれたってしたくない、と思う。

言い訳を述べるべき場面もあるにはある。
たとえば会社に遅刻したとき、友人との約束をキャンセルするとき。理由を訊かれているのに、「言い訳は潔くない」と口をつぐんでいるのが誠意ある態度とは言えまい。そういうときは事態を無駄にこじれさせないために経緯や事情を説明しなくてはならない。
また、本当に潔白なら言われるがままになっていることはまったくないし、相手がなにか誤解をしている場合もそれを解くために積極的に釈明すべきだろう。
これらは責任逃れや自己保身のための言い訳とは違う。

* * * * *

「黙っていたら負け」とばかりに他人の不手際や環境の不備を挙げ連ねるのを傍で見ていると、いつも不思議な気持ちになる。
それが功を奏するとはどうしたって思えないのに、どうしてあんな格好の悪いことをするんだろう。恥ずかしくないのかな。素直に自分の非を認めて謝罪をする、二度と同じことを繰り返さないという気持ちを態度で示す。そのほうがはるかに心証がよいし、信頼回復にもつながるのに……。
そして思う。ああ、そうか。もしかしたら彼、彼女がもっとも言い訳をしたい相手は目の前の人ではなく、実は自分自身なのかもしれない。
本人も本当はそれが自分の非であるとわかっているのだ。しかし認めたくはない。あれこれ理由を並べることで、「私が悪いんじゃない」と誰よりも自分を説得しようとしているんじゃないだろうか。

冒頭の同僚女性の「だって」「でもね」を聞きながら、いずれにしてもなにかを言われるとまず言い訳を考えてしまう人は損だな、としみじみ思う。
誰それが悪い、学校が悪い、社会が悪い、と常に責任が外にあると信じて疑わない人は変わることができないだろう。現実を見ないのは成長や進歩のチャンスを自ら踏み潰しているのと同じだもの。
結局最後まで、彼女の口から「すみませんでした」は出なかった。

【あとがき】
言い訳をするのは私はとても恥ずかしいです。照れくさいのではなくて「恥」に思う、というほうね。「自分が悪いんじゃない」を主張すべき場面ではしなくてはならないし、自分に非があるときは素直に認めて謝らなくてはね。