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2007年05月15日(火) 「腕時計をしない人は信用しないことにしてるの」

川上弘美さんのエッセイ集『あるようなないような』の中にこんな話があった。
電車に乗っていたら、背後から「腕時計をしない人は信用しないことにしてるのよ」という女性の声が聞こえてきた。腕時計をしないということは万人の時間に合わせないで自分だけの時間で生きるということ。つまり人の時間を無駄にしても心を咎めない人に違いないのよ……と話は続き、腕時計をしていない川上さんはビクビクしてしまった、という内容だ。
これを読んでフフッと笑ってしまったのはある友人を思い浮かべたから。待ち合わせに定刻に来たためしがない彼女はやはり腕時計をしない人。会社の創立記念日にもらった社名入りの腕時計一本しか持っていないというつわものだ。
「だってべつにいらんやん。時間は携帯見ればわかるんやし」
そのわりには携帯はバッグの底に沈めたままで、「いまどこにいんのよ!」と電話をかけてもちっとも出てくれないのだけれど。遅刻しても悪びれないかわりに自分が待たされる側になってもあまり腹が立たないようだから、いい意味でも悪い意味でも時間に対しておっとりしているのだろう。

たしかに友人の言う通り、腕時計がなくても困ることはない。実は私も「外出のときは必ず腕時計をする人」ではない。
私の生活で腕時計の必要性を強く感じることはあまりない。間に合わないかも……とどきどきするのは嫌なのでいつも余裕を持って家を出るし、電車は次々やってくるから何時何分のに乗らなきゃ!と駅までの道のりを時間を気にしながら歩くこともない。そのため、「いまこの瞬間に時刻を知りたい」と思うことはそう多くなく、街の時計が自然と目に入ってきたときに確認する程度で十分なのだ。
だから私が腕時計をつけるのは時刻を把握するためというより、アクセサリーとしての役割を期待してのこと。なので文字盤に目盛りのないデザインのものもある。
そんな私なので、夏は腕時計をつけたくない。手首に塗った日焼け止めクリームで汚れてしまうからだ。あと、会社でも外していることが多い。
私の職場はものすごく時間に厳しいのだが、業務中の時間管理は全台共通設定されているパソコンの時計が基準になる。毎時0分から十分間トイレ休憩の時間が与えられるのだが(それ以外は席を離れることができない)、フロアの掛け時計や机上の電話機のデジタル時計ではなく、パソコンの時計が「0分」を表示してからがスタート。終業も同じで、ほかの時計がほんの少し早く定時になったのを見てうっかり帰り支度を始めようものなら、「まだだよ!」と社員さんからたちまち注意されてしまう。
私はどの腕時計も針を一、二分進めている。そんなものは役に立たないどころか、まぎらわしくて邪魔なのだ。

しかしながら、普通の会社員の場合は腕時計がなくては話にならないだろうなと思う。
日経新聞やビジネス系の雑誌には企業の創業者や社長のインタビュー記事がよく載っているが、腕時計に愛着を持っている人が多いことに驚く。「社会人になったら腕時計は必ずしろ」「時間を大切にしない人間は仕事ができない」といった発言もしばしば目にする。
たしかに、常に納期や効率を意識して仕事をしなくてはならない人が時刻を確認するのにいちいちポケットから携帯を出してきて、パカッと開いて、また閉じてしまって……なんてしているようでは時間に敏感になれるわけがない。一日に何軒もの取引先を回って商談をこなす営業マンの腕に時計がないのはかなりリスキーである。
最近車を買い替えたのでいくつかのディーラーに足を運ぶ機会があったのだが、話をしながら目が行くのは営業マンの格好だ。背広の袖口からのぞく腕時計が学生がするような安っぽいものだと、「この値段の車を売るのにこの腕時計か……」とやはり思う。「すみません、いま何時ですかね」なんて訊かれた日には、この人にまかせて大丈夫か?と思ったに違いない。
そういう意味では、冒頭の「腕時計をしない人は信用できない」には一理ある。


二十代の前半に付き合っていた人と長い時間を経て再会したとき、彼の腕時計が目に留まった。
見覚えがある気がしてしばらく眺め……思い出した。大学を卒業したときに「これから遠距離恋愛になるけど、一緒にこれつけてがんばろうな」と贈り合ったペアウォッチだった。
うちにあるのとベルトが違うのは、別れてからも彼がそれを大事に使い続け、革が傷むたび交換してきたからだった。私はあれから一度も着けていないのに……。
「べつに深い意味はないぞ」
「わかっとうわ」
でも、うれしかった。

この先どこかで会うことがあっても、もう彼の腕にそれを見つけることはないだろう。
それでいい。年齢や収入や立場や……いまの自分にふさわしい腕時計を男の人はつけなくっちゃ。

【あとがき】
サラリーマンだと職種によっては見た目も仕事をする上で大事になってくると思うんですよね。うちの夫は営業職でいろいろな人に会うので、やっぱり腕時計や靴やカバンは嫌味にならない程度のいいものを持っています。