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2006年09月29日(金) 立ち位置を知りたくて。

お風呂も済ませ、すっかりくつろいでいるところに夫から電話が入った。
「いまから会社を出る。駅まで出迎え一丁!」
というご注文。
「え〜〜、歩いて帰っておいでよう。もうパジャマだもん」
という言葉をぐっと飲み込み、手近にあった服に着替える。
こういうとき、友人はパジャマに上着をひっかけて行くらしいが、私には真似できない。いくらちょっとそこまで、でも車の運転に自信がないため、万が一のことを考えたら外に出られないような格好をして乗るわけにはいかないのだ。

それはさておき、駐車場に下りると、ぼそぼそと人の話し声が聞こえてきた。
ふと見ると、柱にもたれるようにして五十代と思しき女性が携帯電話で話している。もうすぐ日付が変わろうという時間にどうしてこんなところで話しているのかしら……。
と思いながら車に向かって歩いていたら、突然怒声が響き渡った。

「いい加減にしいよ!ひとりで生きてるんとちゃうんやでっっ!」

ひゃああああ。ちょうど柱の横を通り過ぎようとしているところだったので、飛び上がりそうになった。
あちらは私のことに気づいていないらしい。その後またぼそぼそに戻ったが、車に乗り込むまでにもう一度、今度は「話せば楽になることだってあるでしょうが!!」と叫ぶのが聞こえた。

* * * * *

「さっきのはなんだったんだろう……」
家に(無事)戻り、布団に入ってからも気になった。
女性は電話の相手に激しく苛立っていた。でもケンカではないと思ったのは、彼女が泣いていたようだったから。
たったふたかけらの言葉からなにを推測できるわけもないけれど、しかしあれは心配が高じての感情の噴火だったのではないかという気がした。
たとえば、離れて暮らす娘や息子、あるいは老親に異変があり非常に案じているのだが、相手が話してくれないために状況がつかめない、とか……。

------というのはこちらのまったく勝手な想像であるのを承知で、私は切ない気持ちで胸がいっぱいになった。
あんな時間にわざわざ外でということは、家族の前では話しづらい内容だったのではないだろうか。いくら誰もいないと思っていたとはいえあんなふうに感情的になってしまうなんて、よほど切羽詰まっていたのではないか。
と思ったら、そうかどうかもわからないのに、「事情がわからないのって焦るよね、なにもできないのって無念だよね」と相槌を打っていた。

誰かを励ますとか、慰めるとか。そういうことが自分はどうしてこんなにへたくそなんだろうと思うことがある。
誰でも彼でもの役に立ちたいなんて考えちゃいない。半径五十メートルくらいにいる人たちがなにかに悩んだりつらい思いをしたりしているときに力になりたい、それだけだ。
そんなに大それた望みではないと思うのに、これが私にはむずかしい。
少し前から母はある病気の治療中である。二週間に一度検査があるのだが、いまのところ期待する結果が出ていない。たとえばそんなとき、私はうまく声がかけられないのだ。
「今度はきっと大丈夫だよ。心配ないって」
そう言って元気づけたいのは山々だ。しかし、私は同時にこうも考えてしまう。
それは根拠のない楽観である。ここで「そうね、次こそきっとよね」と思わせるような励まし方をして、もしも次回もいい結果が出なかったら?期待した分、より落ち込ませることになるのではないか。それならば、「もしかしたら長期戦になるかもしれないけど、焦らないでのんびり行けばいいじゃない」と言ったほうが、そうなったときに大きな失望をしなくてもすむのではないだろうか……と。
両者のあいだで悩み、結局私は「がんばろう」以外のことを言えぬまま終わってしまう。すでにもうめいいっぱいがんばっている人に伝えたいのはそんなことではないのに。

数年前、妹が初期流産を繰り返していたときもそうだった。
彼女も母と同じようにつらいときほどそういう顔を見せまいとするほうで、そのことで相談されたり目の前で泣かれたりしたことはなかった。でもその心の内は容易に想像がついたし、どうにかして支えになりたいと思った。
しかし、はたして彼女は私にそれを求めているのだろうかと考えたら、私は動けなくなってしまった。
私が心配していることは彼女にも伝わっている。それでも「大丈夫」としか言わないということは、そっとしておいてほしいということではないのだろうか。たしかに、声をかけられたりかまわれたりすると忘れようとしていることから逃れられない、余計に苦しい、ということもある……。

私はいったいどこにいたらいいんだろう?そばにいたらいいのか、距離をとるべきなのか、それともそこにはいないほうがいいのか。
この「自分の立ち位置がわからない」というのは、なんとも情けなく悲しいことで……。
なにかに悩んで耐えられなくなると、真夜中であろうが休日の早朝であろうがかまわず電話をかけてくる友人がいる。彼女は泣きながら二、三時間一方的にしゃべるのだが、相手がこういうタイプならいい。「私は求められているんだ」とわかるから。
切ないのはそれがわからないとき。力になりたいけどどうしたらいいのかわからない、それにかえって迷惑をかけることになるのではないか、でもいまこうしているうちにも相手は苦しんでいる、焦る、無力感にさいなまれる、自分がとるべき行動は……の無限ループ。
妹は今春元気な赤ちゃんを産み、すっかり明るさを取り戻したけれど、私はいまでも、あのとき自分はどうすることを望まれていたのだろうと考えることがある。


先日実家に帰ったとき、母がパソコンをしているのを覗き込んだらブログが開かれていた。
「げげっ、web日記を読む趣味なんかあったの!?ま、まさか、私が出入りしているリンク集から飛んでるとかじゃないでしょうね……」
と戦慄したら、同じ病気で治療中の女性がしているサイトであった。検索エンジンで見つけたらしい。
母は最初、そこに載っている情報を参考にしようと読みはじめたのであるが、書き手の女性がはつらつとした愉快な人なので、週数回の更新を心待ちにするようになったという。
とくにおもしろかったり心に残ったりした日の日記はプリントアウトして読み返しているというからびっくり。彼女を見ていると元気が出る、自分もこんなふうに明るく乗り切ろうと励まされる、とニコニコして言う。

心配をかけまいと私や妹には弱音を吐かない母に対し、「どうしてそんなに水くさいのよ」と悲しく、ときには腹立たしく思うこともある。しかし、いくら娘でも、いくら気持ちがあっても、担えない役があるのかもしれない。
「コメントとかつけてるん?」
「いやいや、読むだけよ。そんなん、ねぇ、なんて書いたらいいかわからんし……」
ともごもご言う。
母が完治したら、そのブログの女性に「母を支えてくださってありがとう」とこっそりメールを送るつもりだ。