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2006年10月02日(月) イニシャルG

※ 食事時には向かない話なので、これからごはんという方はまた後でいらしてね。

子どもの頃の夏休みの思い出について書いた田辺聖子さんのエッセイの中に、「南京虫」という単語が出てきた。
それがどんな虫なのか、私は知らない。丸くて赤くて人の血を吸い、その痕は大きくふくれあがるらしい。戦前の大阪下町の家には夏になると当たり前に出たそうだ。
朝起きて布団を畳むとそこに夜のうちに集まってきたのがわんさかいて、それを嬉々として退治したという内容である。

……が、私は途中で本を閉じてしまった。
なにがだめといって、私はこの世で虫ほど嫌いなものはない。夏が苦手なのも、彼らを目にする機会が増えるからというのが理由のひとつであるくらいだ。
川上弘美さんは蝶恐怖症で、遠くを飛んでいるのを見ただけでも足がすくんで動けなくなるそうだが、私は虫全般に対してそう。バッタを捕まえたりセミの脱け殻を集めたりしていたふつうの子どもだったのに、いつからこんなふうになってしまったのかわからない。が、とにかくいまはそれに触るなんてぜったいに無理だ。
蚊が腕に止まっても叩けないし、レタスにアブラムシがついていたらその部分をちぎって捨ててしまう。洗い流せばいいじゃないと言われそうだが、いったん見てしまったらもうだめなのだ。殺虫剤のCFは正視することができないし、それを買うときも缶に描かれている虫のイラストに指がかからないよう細心の注意を払う。
われながらこの拒絶反応は尋常ではないと思う。

そんな私がもっとも嫌悪し、恐怖するのはなにかと言うと……。
一匹見たら百匹いると思えとか、世界が核戦争で滅びても生き残るとか言われているあの黒いやつ……。そう、「イニシャルG」だ(その名を書くのもおぞましい。某漫画でこう呼んでいたので拝借)。
私は独身時代に長くひとり暮らしをしていたが、振り返ればそれはGとの闘いの歴史でもあった。
部屋探しをしていて、どんなに間取りや家賃、日当たりなどの条件がいいところを見つけても、一階に弁当屋やコンビニといった食べ物屋のテナントが入っていたら迷わずあきらめた。敵はといを伝ってあがってきて、エアコンの通風孔や換気扇から侵入してくる。そんなところに住んだら、どんな恐ろしい目に遭わされるか。
しかし、そうでないマンションに住み、台所を完璧に片付けていても、どこからでも入り込んでくるから手ごわいのだ。
ホイホイを置くのは嫌。それが目につくたび「あの中に……」と思い吐き気を催しそうだし、触れないから捨てるときにも困る。かといってホウ酸ダンゴも気がすすまない。もし部屋の真ん中でひっくり返られたら……。
よって、出現したときに殺虫スプレーで闘うということになるのであるが、そのたび恐怖で頭の中は真っ白になり、脂汗が背中を伝った。ノズルをうんと伸ばして構えるも、噴射した後のGの反応を想像したら指が震えてボタンが押せない。もしもがき苦しんで、最後の力で空中戦を挑んできたら……。
しかし、ここで取り逃がしたら大変なことになる。殺虫剤で仕留め損なうと、そのGはそれに耐性を持つ子どもを生み、どんどん強くなっていくというではないか。
私はほとんど半狂乱で煙報知器が作動するんじゃないかと思うほどスプレーを捲き散らし、えずきながらそれをゴミ捨て場に持っていったものだ。

こうした激闘は今年の夏も多くの方が経験されたに違いない。
「掃除機で吸い込んだはいいけど、袋を交換しようとしたらガサガサいってて怖くてできない。どうしよう〜〜っ」
と友人から半泣きで電話がかかってきたことがある。
「けど、はよ交換せなパイプの先から出てくるで……」
「吸い込んだら袋の中で窒息死するって聞いてたのに!」
そんなわけがない。彼らには一滴の水が人間にとっての中ジョッキ一杯分に相当するそうだ。空気だってほんのちょっぴりあれば生きられるだろう。
また別の友人はカレー鍋の中にそれを発見、蓋の隙間から台所用洗剤をドバドバと流し込んだ。
「で、それからどうしたの」
「蓋を開ける勇気がなくて、鍋ごと捨てた」
わ、わかるわ……。

しかしながら、たまにはこんなめずらしいケースも。大学時代、仲良しの女の子から「部屋に出たんだけど、どうしたらいいかな」と電話が。どうしたらって、やっつけるしかないじゃないの。
「なに、スプレーがない?じゃあ新聞紙を丸めて……え、新聞とってない?じゃあ雑誌でもなんでもいいからっ。ぐずぐずしてたら逃げられるで!」
「いっそ逃げてくれたほうが……。だってこんな大きい虫、殺せない」
「なに言ってんの、勇気出して!」
結局、彼女は捕物に失敗してしまったのだが、それほど怖がるでもなし、Gを目の前にしているにしてはのんびりしていたなあと思っていたら、後日理由が判明。
彼女の故郷、軽井沢は涼しいのでそれが生息していない。彼女はそのとき初めて見たため、私たちが無条件に抱く恐怖や嫌悪を感じていなかったのである。

* * * * *

で、数日前、わが家にも出た。今年もなんとか見ないで済んだと胸をなでおろしていた矢先、洗面所の壁に……。
が、ラッキーなことに夫が家にいた。あわわわわと身振り手振りで伝える。電球も替えてくれない人であるが、Gの退治は自分の役目と認識しているらしい。もっとも、妻は腰を抜かしていて使いものにならないからであるが。
「はい、もうだいじょうぶだよ」
「ううううっ、あ、ありがと……」
このときほど「結婚してよかった」と思う瞬間はない。