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2005年09月16日(金) ケンカはこりごり(後編)

前編中編からどうぞ。

もしあなたが私と会ったことがあるなら、私が自信に満ち満ちた顔で目的地と正反対の方向に歩いて行くのを目撃したことがあるかもしれない。
私はそのくらい方向感覚が欠如しているのだが、加えて、どの道も同じに見えてしまうという難儀な目の持ち主である。
電車は十分でテッシュに到着、駐車場を確認しに行った私はがっくりとうなだれた。現地に着いたら来た道を思い出してペンションに帰れるのではないか、とひそかに期待していたのに、宿の方角はおろか車の中から見た駐車場はここだという確信さえ持てないではないか。道路を眺めても、「そうそう、たしかにこの道通ったわ!」とはならなかった。
本当にこの駅で間違いないのだろうか。「巨大駐車場」があるのはテッシュだけという保証はどこにもない。もしかしたらツェルマットに隣接するどこの村にも用意されているのかもしれない……。
いや、しかし。仮にそうだとしても、それ以上手がかりを持たない私はどこへも行けないのだ。ペンションの最寄駅が「ここ」である可能性に賭けるしかない。

気を取り直して駅に戻る。スイスの主要な観光地には宿を探す旅行者のためのホテルの案内板が置かれている。まずそれを探そう。
どういうものかというと、ラブホテルのフロントにある部屋案内のパネルを思い浮かべていただきたい。ああいう感じで、近辺にあるホテルやペンションの外観の写真がずらっと並んでおり、一泊の料金、部屋の設備、空室の有無などが一目でわかるようになっている。
パネルのボタンを押せば選んだホテルの位置が地図に表示され、備え付けの受話器を上げてダイヤルすればそのホテルに電話がつながる。宿探しをするときに大変重宝するものなのだ。

テッシュはとくに見るべきものもない田舎の村だが、車で旅をしている人を当て込んだホテルやペンションがたくさんあり、案内板が設置されていた。
「助かったあ……」
なんせペンションの名がわからないのだ、もしこれがなかったらゲームオーバーになるところだった。
よおーし、宿の外観はかろうじて覚えている。それを頼りになんとしても見つけだしてやる。
「えーと、四階建てくらいで壁は白、バルコニーにはゼラニウムがすごくきれいに咲いてて、いかにもスイスって感じだったよな」
見覚えのある建物をパネルの中からピックアップしようとして……ガーーン!
そこに並んでいる写真の半分くらいが、同じ建物を角度を変えて撮ったんじゃないの!?と言いたくなるほどそっくりだったのである。つまり、“いかにもスイス”な見た目のホテルだらけだったのだ。なんてこった……。
「こうなったら片っ端から電話をかけて、夫の名前で予約が入っているところを探しだすしかない!」
案内板についている予約専用の受話器を引っ掴む。
……あ、あれ?呼び出し音もなにもしないぞ?
電話機が故障していた。


このあと、私は数時間歩き回ってやっとこさペンションを探し当てる。とっぷりと日は暮れ、駐車場にマイ・レンタカーを見つけたときは疲労と安堵でその場にへなへなと座り込んでしまった。
もしツェルマットに向かう車の中で駐車場の話を聞いていなかったら、あるいはテッシュの駅にホテルの案内板が置かれていなかったら、私はいったいどうなっていたのだろう。正真正銘、間一髪セーフだったんだな、と思う。
「あんな思いをするのは、もうこりごり!」
以来、旅先で夫婦ゲンカをすることはすっかりなくなった。

……と言いたいところであるが、物事はそう単純ではない。
しかし、駅からひとりで帰れるという自信がつくまではカチンとくることがあっても「道を覚えてから、覚えてから」と呪文のように唱え、ぐっと堪えるようになった。いざというときのために、ホテルにチェックインしたらイの一番にパンフレットの類いをもらい、ガイドブックにはさみこむ癖もついた。
ここをお読みのみなさんはもちろんそんな心配はないと思うけれど、旅先でケンカなんてするもんじゃないですよ、ほんと。