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2005年07月27日(水) 「やばい」の正しい使い方

電車の中で群ようこさんのエッセイを読んでいて、ふきだしそうになった。
書店のベストセラーコーナーに女子大生がふたり。片方が井上靖さんの『孔子』を手に取り、「あたし、これ読んだんだ」と言うと、もう片方がどうだったかと尋ねた。すると、感想を求められた女の子はひとこと、「相当、きてたわよ」。
もうひとりは納得した様子で頷き、『孔子』についてのふたりの会話はそれで終わってしまった。
「きてた」の後に具体的な感想が続くものと思い、耳をそばだてていた群さんはつぶやく。
「いまの若い人は、『この本はきてた』と聞けばすべてがわかってしまうのだろうか」

「きてた」だけではなにがなんやらわからんよなあ……と相槌を打ちつつ私が思い浮かべたのは、最近の若者が多用しているという「やばい」という言葉。
メディアでもよく取り上げられているので、彼らがそれをしばしば本来とは別の意味で使っていることをご存知の方は少なくないだろう。
以前、こんな話を聞いた。ニュージーランドに長く住み、通訳をしている日本人の方が仕事中に困った経験があるという。
日本からやってきた二十代の男の子が食事中に「これ、やばくないですか」「こっちのもすごくやばいですよ」とやばいを連発する。喜んでおいしそうに食べているように見えるのに……とどうしても不可解で、同席していたニュージーランド人に彼の言葉を訳して聞かせることができなかった。
が、帰宅してネット国語辞典で調べてびっくり。若者の間では「すばらしい」「おいしい」「かっこいい」を表現したいときにも「やばい」が用いられる、とあるではないか。そのような意味があるとは夢にも思わなかった------という内容だった。
先日、文化庁の国語世論調査の結果が公表されていたが、それには十六歳以上のティーンエイジャーの七割が「やばい」を肯定的な意味でも使っていると回答した、とあった。

一時期、若い女性が自分が気に入ったもの、好ましく思ったことについて印象を述べるときになんでもかんでも「かわいい」という言葉でまかなっていたことがあった。
誰かになにかを伝えるのにもっともふさわしい言葉を探すという作業をすることなく、「かわいい」で片づける癖をつけてしまったら、自分の中にある感覚や感情を正確に把握したりアウトプットしたりする力をなくしてしまうのではないだろうか。
そんな危なっかしさを感じたものだが、いま「やばい」を使う若者に対しても似たようなことを考える。
若者言葉とされているものの中には、私がふと口にしてしまうものもある。「チョー」や「微妙」であるが、言い訳をさせてもらうと、それらは元の意味からかけ離れてはいない。
「やばい」のようにニュアンスがほとんど逆転していたり、「全然オッケー」のように文法的におかしかったりするものには、やはり違和感を覚えずにいられない。
言葉は変化するものであるという。しかし、褒め言葉としての「やばい」が十年後、二十年後に新しい用法として定着しているとはどうしても思えない。「この料理、やばいよねー」に世代を超えて浸透するだけの説得力やセンス、時代を超えて生き残りそうな生命力はまったく感じない。

夕食後テレビを見ていたら、サッポロビールの低カロリーアルコール飲料「スリムス」のCF(音、出ます)が流れた。
ソファの上で工藤静香さんの真似をして(もちろんうんと色っぽくネ)脇腹をつまみ、例のセリフを言おうとしたら、傍らの夫が一瞬早く言った。
「かなりやば〜い」
……ムッ。わざと間違えたな。
しかし、「やばい」はやっぱりこう使うもんだよなあと不覚にも納得してしまった私である。