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2005年06月13日(月) ケンカの顛末(後編)〜もうひとつのマラソン

前編(「夫婦の終末時計」)中編(「万策尽きる」)のつづきです。

この四月から個人情報の開示に関する規制が非常に厳しくなり、本人以外にはほとんど何も伝えられなくなったことは知っている。
私も仕事で顧客の自宅に電話をかけると、家族から何の用件かと尋ねられることがあるが、一切答えることはできない。カウンターの女性が「お教えできません」一点張りなのは正しい。

「わかりました。どうもお手数おかけしました」
内容は第三者には話せないと伝えると、「私は妻なんですよ!」「親にも話せないとはどういうことだ!」と電話口で怒りだす人がいるけれど、まさか私が彼らと同じようにごねるわけにはいかない。
夫は間違いなくチェックインしているだろうから、もう探しようがない。私は女性にお礼を言って、出口に向かって歩きはじめた。

そのとき、「お客様!」と声がかかった。先ほどの女性が追いかけてきて、「お名前がわかるもの、何かお持ちですか?」と言う。
免許証を見せると、彼女はいままでの半分くらいの大きさの声で言った。

「○男様はまだチェックインされておりません。まもなく締め切りですので、ここでお待ちになればいらっしゃるのではないでしょうか」

私が妻であるのが間違いないとわかったからといって、開示してもよくなるわけではない。しかし彼女は、夫はすでにチェックインしたものと思い込み、とぼとぼと帰って行く私を見過ごすことができなかったのだろう、耳打ちするように教えてくれたのである。

ロビーに流れるアナウンスが「この放送をもちまして搭乗手続きの受け付けを終了させていただきます」に変わった。そのとき、夫の姿を発見。
顔を見たらむかっときたが、飛行機に乗るまでは休戦だわ!と駆け寄ると、彼は「ぎりぎりまで待って来なかったら、ひとりで行くつもりだった」とぼそっと言った。

「タクシー代ちょうだいよ」
「どうして僕が」
「当然やんか!」
「どこがだよ」

言い合いしながらターミナルを走り、私たちは滑り込みセーフで機上の人になった。


フルを走る夫を見送った二十分後に十キロの部がスタート。
疲れたらペースを落とし、息が整ったらまた走りだす、そんなふうにしてしんどい場面を切り抜けながら、私は「結婚生活もマラソン、なんだよなあ……」と考えていた。

出場したからにはなにがなんでもゴールしなくては、という考えの人もいるかもしれないけれど、私はそうじゃない。足をくじいてもうだめだ、これ以上がんばれないと思ったら、ギブアップするだろう。
人は一生のうちにいくつものマラソンを走るが、「結婚生活」という名のマラソンは完走することが何よりも大事という種類のものではないと思っているから。
這ってゴールに辿り着いたところで「ただつらくて苦しいだけだった」という感想しか持てそうにないと思ったら、勇気を出してリタイアし、元気を取り戻してからまた別のコースを走り直したい。

そんなふうに考えているからこそ、最初に自分がこれと決めたマラソンを走り抜くことができたら幸せだなあと思う。
途中には上り坂もあればぬかるみもある。楽な展開になんてならないだろうが、ゴールで「われながらよくがんばった。機会があったらまた走ってもいいな」と思えたなら上出来だ。
そんなマラソンにするために、この先どのくらいの努力と忍耐が必要になるのかわからないけれど、じきに走りやすい道になる、背中を押してくれる風が吹くさと信じられているうちはそれらを惜しむまいと思った。

* * * * *

ゴールの何百メートルか手前で夫を待つ。去年のタイムより少し遅れて姿が見えた。予想通り、息も絶え絶えの様子。
並走する私に、まさに声を振り絞るという感じで彼が言った。

「ビ……ビール、二本……」
「もう買うてる!」
「で、でかした……」

北海道にいるあいだも余震のようなケンカが続き、愉快とはほど遠い旅だったのだけれど、この瞬間だけは来てよかったと思った。


で、終末時計の現在時刻はって?
実はあれから見てないの。確認するのはもうちょっと針が戻った頃にするわ……。