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2005年06月10日(金) ケンカの顛末(中編)〜万策尽きる

※ 前編(「夫婦の終末時計」)はこちら

「この旅行に行かなかったら、何かが変わるかもしれないな」

そんなことを考えるのは、あながちおおげさなことではない気がする。
鯉のぼりをどちらが片づけるかで揉めたことがきっかけで「この人とやっていけるんだろうか」と思いはじめ、数年後に別れてしまった知り合いがいる。どんなにちっぽけで馬鹿げたことであっても、ボタンの掛け違いの始点になりうるということだ。
先ほど夫が吐いた言葉を思い出したら、仕事のことが頭をよぎった。私はつい先日職場を変えたばかりであるが、もし引越すようなことになったら通えなくなる。迷惑かけちゃうなあ……。
そんな「それどころじゃないだろうに」なことを思わず考えたのは、それだけその可能性がリアルに感じられたということなのかもしれない。

しかしそのときふと、去年の千歳マラソンの光景が心に浮かんだ。
夫は足が痛くて痛くて、本当につらそうな顔をして倒れ込むようにゴールに入ってきた。きっと今年もそうなるだろう。
「もし私が行かなかったら……」
走り終えた後、彼は棒になった足を引きずって自分でタオルを取りに行ったり、水をもらいに行ったりしなくてはならない。
怒りは収まっていなかったが、その姿を想像したら胸が痛んだ。

「飛行機のチェックイン締め切りって出発の十五分前だっけ」
今度は本物の時計に目をやる。電車ではもう間に合わない。タクシーでもむずかしいかもしれない。
私はソファから飛び起きた。

* * * * *

空港に着くと、すぐに夫の携帯に電話をかけた。
「電波の届かないところにいる、または電源が入っていないため……」
なんでだ、まだ搭乗ははじまっていないはずなのに!さては腹立ちまぎれに電源を切ってるな。
しかたがない。とにかく私のチケットが生きているかどうかを確認しなくては。チェックインカウンターに走る。

「○○○子の名前で次の千歳行きを予約してるんですが、キャンセルになってますか」
キャンセルされていたら、ここでゲームオーバーだ。

「お調べいたします。……いえ、キャンセルのご連絡はいただいておりませんが」
えっ、そうなの?こんな時間なのにどうしてまだキャンセルされていないんだろう。
いや、そんなことより夫をつかまえなくては。チケットは彼が持っているのだ。

「○○○男……あ、夫なんですけど、もうチェックインは済んでますよね?」
「申し訳ございませんが、そういった内容にはお答えすることができません」
あっ、個人情報保護法か!しかし、「ハイ、そうですか」と引き下がるわけにはいかない。

「えーと、じゃあそちらのラウンジにいると思うので、呼び出していただけませんか」
夫はいつもチェックインしたら搭乗まで航空会社のラウンジで過ごすのだ。

「恐れ入りますが、お客様の所在確認などもいたしかねます」
くくうー、やっぱりだめか。
時計を見て焦る。チェックイン締め切り時刻まで五分を切っている。 

「ではラウンジの電話番号を教えてください。こちらからかけてみますので」
食い下がったら、女性の眉がハの字になった。そして本当にすまなさそうに、
「ラウンジの電話番号は外部には公表しておりませんので……申し訳ありません」
と言った。

万策尽きた。
私は物事はすべて起こるべくして起こり、なるべくしてなるのだと信じている。そうか、ここまで来たけど、台本は私が夫を見つけられぬまま引き返すストーリーになっていたんだなあ……。
感慨のようなものに包まれていたら、「まもなく搭乗手続きの受け付けを締め切らせていただきます」のアナウンスがロビーに流れはじめた。 (つづく