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2005年03月23日(水) 狂気の種

「大人の男性」という言葉を聞いて私がイメージするのは、作家の渡辺淳一さんである。小説は一冊も読んだことがないけれど、エッセイは見た目通りのソフトな語り口で抑制が効いている感じがとてもいい。
「男の浮気は遺伝子のせいだからしかたがない」という意味のことをよくお書きになるし、男と女の話では考えや感覚がまるで違うことが少なくないのだが、それはそれとして、魅力的な男性なんだろうなあと思っている。この方がモテるのはよくわかる。

その渡辺さんのエッセイに、三十年近く前にホテルで結婚式を挙げたときの話があった。
控え室から披露宴会場に向かうとき、仲人、新郎、仲人夫人、新婦の順に縦一列になって歩くのが通例だ。しかし、先頭を歩いていた仲人の恩師が五メートルも行かないうちに立ち止まり、振り返って言った。

「君が先に行きなさい」
渡辺さんがどうしてだろうと怪訝な顔をすると。
「角に、硫酸でも持った女性がいると大変だからね」

当時、渡辺さんは新婦以外の女性とも付き合っていたため、恩師は厄介なことが起きるのではと恐れていたのである。新郎本人より心配し、ホテルにも邪魔者が入らぬよう厳重に注意せよと指示をしていたという。
そして、会場の入口に着いたところで再び恩師と渡辺さんは入れ替わり、何事もなかったかのようにメインテーブルまで歩いたそうだ。

* * * * *

この話を読んで考えたのは、「曲がり角で硫酸の瓶を持って待ち構える女性」というのはいったいどういう人なんだろうか、ということだ。
別れ話のもつれから交際相手に殺されたという事件はときどき起こるし、別れた恋人がストーカーになったとか、結婚したら夫が豹変し暴力を振るうようになったとかいう話もちょくちょく耳にする。彼らにはもともと、つまり交際が順調だった頃から、結婚当初から、「この人、一歩間違えたらちょっと怖いかも・・・」と相手に思わせるものがあったのだろうか。
それとも、それはなんの予兆もなくある日突然、表出したのだろうか。

私自身が別れた恋人につきまとわれたり怖い目に遭わされたりしたことはない。が、プラットホームの最前列に並んで電車を待つのが気が進まない時期はあった。
学生時代のことだ。大学の構内を歩いていたら、前方からやってくるひとりの女の子に気がついた。すごい形相で私を睨んでいる。付き合いはじめたばかりの彼の、元彼女である。
その女の子はその頃、彼のポケベルに「戻ってきてくれなければ死ぬ」という内容のメッセージを毎日送りつづけていた。彼の実家に電話をかけ家族に泣いて訴えたりもしていたようで、一緒にいるときに彼の母親から「○○さんの様子がおかしかったから、家に見に行ったほうがええんやない」と連絡が入ったことも何度かあった。
講義に出れば愛しい男の姿がそこにあり、その隣りには別の女。彼女にとってそれはつらかったろうと思う。しかしだからといって、「じゃあお返しします」というわけにはいかない。
「もしなにかあったらどうしよう」と言う彼に、「どうしようか・・・」と答えたのを覚えている。

彼女を大学で見かけることは次第に少なくなり、やがてまったくなくなった。そして留年が決定したと同時に彼女は退学、音信が途絶えた。
それから何年か経ったある日、どうやって調べたのか彼が住んでいた社員寮に電話がかかってきたという。「明日、結婚する」とだけ言って切れたそうだが、彼女の真意はなんだったのか。すべてを終わらせることはできたのだろうか。


太りやすい体質というのがあるように、たとえば感情の起伏が激しいとか嫉妬深いとか独占欲が強いとか、そういった行動を起こしやすい資質を人より多く持った人というのはたしかにいるだろう。
しかし、“狂気の種”はすべての人の中に存在している、と私は思う。運動しないでファーストフードばかり食べていたらどんな人でも肥満になるように、なにかの拍子に、あるいは積み重ねでその土壌が用意されたら誰の種でも発芽してしまうのだ。

多くの人が「自分はそんなふうにはならない」と思っている。しかし、“硫酸入りの瓶を握りしめる人”になるのは想像しているよりきっとずっとたやすい。
正気と狂気は険しい谷に阻まれているわけでも深い川で隔てられているわけでもない。案外、地面に引かれた白線をひょいとまたぐ程度のものなのではないか・・・。
彼女もごく普通の、どちらかといえば地味でおとなしそうな女の子だったなと思い出すと、そんな気がしてならない。