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2005年02月02日(水) 混浴に期待するもの<女性篇>(後編)

※ 前編はこちら

女性専用の立派な内風呂があるにもかかわらず、彼女たちがあえて混浴に向かうのはどういうわけか。
「話の種に・・・ってやつじゃないの」
と友人は言うが、そうだろうか。

林真理子さんのエッセイに、仲の良い男女のグループで温泉に行き、みなで混浴の露天風呂に入ったときの話があった。
中に大胆な女性がひとりおり、岩の上に置いたビールに手を伸ばすたびに上半身をお湯から出すものだから、胸が丸見えになる。林さんはおおいに悩んだ。
「いくら無礼講の混浴といっても、ここまで見せていいものなのか。それとも、ハダカの付き合いを楽しむ場で、自分のように肩から下は絶対に見せまいと頑なになるほうがおかしいのか・・・」
翌日、男の人たちは言ったそうだ。
「お風呂の縁に腰掛けて、ヘアまでばっちり見えた」
「あのおっぱい、エステに行ったりして相当努力してるんだろうなあ。見てあげるのも功徳だと思った」

私はこういう女性を容易に想像することができる。というのも、実は私も独身時代に一度だけ、混浴を経験したことがあるからだ。
その温泉はにごり湯で、女湯から湯に浸かったまま混浴の露天風呂に移動できるつくりになっていた。女湯があまりにも小さく景色も貧相だったため、思いきって行ってみたのである。
そうしたら、やはりいたのだ、人魚のように岩に腰掛けたまま友人とおしゃべりしている女性が。
濡れたタオルが張りついて体の線があらわになっている。「そんなこと、思ってもいないワ」という風だが、彼女が気づいていないわけがない。それどころか、胸元のタオルの合わせ目の位置や脚の組み方、表情にまで艶かしく見せるべく緻密な計算がなされているはずだ。
女が「男性の視線」にどれだけ敏感か、意識しているかということは、セックスのときのことを思い浮かべればすぐにわかる。「電気を消して」は恥ずかしいから、だけじゃあない。“ウィークポイント”を隠す目的もしっかりあるのだ。

惜しげもなく胸をさらしたり岩に腰掛け脚を組んだりしている女性は、無邪気なわけでも無頓着なわけでもない。
「見られたい」
胸の谷間を強調した服を着たりミニスカートを履いたりするとき、「人の視線を集める」ということに無欲ではない。混浴での大胆な振る舞いはそれらの延長線上にあるものではないだろうか。

* * * * *

それにしても、である。バスタオルを巻いただけの姿で脱衣所から湯壷まで歩くのは、どれほど勇気がいることだろう。
「正しい混浴の入り方」をネットで調べたところ、女性が入ってくるのに気づいたら、男性はさりげなく目をそらすのがマナー(逆に女性は、男性が入ってきたら、「どうぞ」と声を掛けてあげるのが親切らしい)とあったが、女性がバスタオルを取る瞬間を見逃すまいと不躾な視線を浴びせつづける輩も少なくないようだ。

縁に腰掛け、お湯の温度を見ているような顔をしながらタイミングを窺う。細心の注意を払っても、何人かの男性には“中身”を披露してしまうことになるだろう。
しかし、そういうハプニングさえも面白がることができる度胸と遊び心のある女性でなければ、混浴を楽しむことはできないに違いない。やたら目が合う男がいたら、「絶対に見せてやらん」と意地になってしまいそうな私みたいなのがそれを満喫するのはむずかしいだろう。
また水着着用が許されている混浴もあるが、そういう女性は場をかなり白けさせるのではないだろうか。

混浴好きの人に言わせると、その魅力は「見ず知らずの人と会話が楽しめるところ」にあるらしい。
女湯でそこに居合わせた人が世間話に興じているのを私は見たことがないが、混浴となるとそんなふうになるのだろうか。私が入った露天風呂にはそんな雰囲気はまるでなかったけれど、照れ隠しが人を多弁にさせるということなのかもしれない。
しかしながら、「見えちゃうんじゃないか」なんてびくつきながら見ず知らずの男の人と話がしたいとは思わんな、と身も蓋もないことを考えてしまう私である。


前編のテキストに、ある男性から「私は混浴風呂には絶対に入りたくない」というメールが届いた。
あら、またどうして?と思ったら。女性を見てあらぬことを考えてしまい、もし体に“変化”が起こるような事態になったら恥ずかしい、情けない、ということであった。

そうか、混浴における「見られたらどうしよう」は女性の専売特許ではなかったのねえ・・・。
男性なんて見る一方なんだから得るものはあっても失うものはないじゃない、と考えていた私は認識の甘さを恥じた。
どなたか「混浴に期待するもの<男性篇>」を書いて、私に勉強させてくれないかしらん。