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2005年01月28日(金) こっぱみじんにされちゃった

前回のテキストにはたくさんのメールをいただいた。
一通を除くすべてが女性からで、
「あの日記、自分が書いたんじゃないかと思ったくらい共感しました」
「ほんと、『このハクジョーモン!』ですよね」
などなど、私の「女性は別れたからといって、恋人からプレゼントされたものから彼の残像を消し去ることはできないのだ」に賛同するものばかりであった。

・・・となるはずだったのに!なるはずだったのに!
なんということだろう、メールをくださった女性全員が「我こそはハクジョーモン」な方だったのである。
「捨てる」「売る」という回答もあったが、もっとも多かったのは「使いつづける」。「物に罪はない」という文言を、私はいくつのメールの中で目にしたことか。

「別れた後も恋人からもらった指輪をあっけらかんと使いつづける女性がときどきいて、人が打ち立てた論をこっぱみじんにしてくれるから困っちゃう」
と書いた私の立場はどうなる。ひょっとして私みたいなのこそが「ときどき」存在する側の女だったのか・・・?
うちの日記を読んで「なるほど、世の中はそうなっているのか」なんて思う人はいないから、私はいつも遠慮なく物事を自分の目に映るそのままにああだこうだと書いているが、それにしても格好がつかないじゃあないか。
そういえば男と女の話を書くと、「小町さんは変わってる」と言われることがちょくちょくあるわ・・・。

気を取り直そう。「使いつづける」のメールの中に愉快なものがあった。
大事な会議の日に別れた彼が自分がプレゼントしたネクタイをしているのを見て、心の中で「勝った!」とガッツポーズをつくったある女性。
「ふふふ、やっぱりまだ私の力が必要なのね」
しかし、「アクセサリーに罪はない。というわけで使い倒してます」と私にメールを書きながら、はっと気づいたそうな。あのときの彼も自分に未練があったわけではなく、「ネクタイに罪はない」ということだったんだわ、と。
「私のほうこそメデタイ人間だと、たった今知って、愕然としております・・・」


のんのさんもまた、男性だったら「このハクジョーモンがああっ!」と私にののしられるタイプの人である。
詳しくはこちらのテキストを読んでいただくとして、中学時代に付き合っていた男性がデートで見た映画のチケットをいまだに保管していると言うのを聞いて、「お願いだから処分して」と懇願したのだそうだ。
あら、だったら私なんて土下座してお願いされちゃうなと思ったのは、現役時代の私は誕生日に食事に行けばコースターやワインのコルクを、旅行に行けば駅員さんに頼んで切符をもらって帰ってくる女だったからだ。

当時の日記帳にはそういったものがなんでも貼り付けてある。
コースターには彼にも一筆書かせたので、「○○を食べた。うまかった」なんてコメントを読むと顔がほころぶ。コルクに日付を書いて集める、というようなことを恋愛中、人はしないのだろうか(するだろう、ふつう。え、しない?)。
いまでも私は友人と食事に行くと、必ずショップカードをもらって帰る。いつ誰と行き、店の雰囲気、味はどうだったといったことを書き添え、ファイルするのだ。
私にかかればどんなものでも“思い出の品”になる。過去の恋人とのこまごまとしたエピソードを覚えているのもそういう性分だからだろう。


ところで、私には「記念日」がとても多い。
お付き合いした男性の誕生日はもちろんのこと、付き合いはじめた日、別れた日まで覚えているし、「初めて○○した日」というのもたくさんある。
初潮を迎えた日、ファーストキスをした日、初めてそういうことをした日、すべて私の胸の中にある。いちいち思い出して「○年前の今日、私はオンナになったんだわ、ウフフ・・・」なんてやることはないが、なんとなく幸せな気分になる。
友人たちはこんな私を「アニバ女」と言ってバカにするが、私に言わせれば、そういう素敵な出来事が自分の人生においていつ起こったかということに無頓着でいられるほうが不思議なのだ。覚えておいたからといって脳みそが重たくなるわけでもないのに。

思い出をいつまでも原型そのままに残しておきたい、という気持ちが私はとても強い。だから恋人が残したものを捨てることができないのだが、そのことと私の人生に記念日が多いことはリンクしていると思う。
別れた恋人の持ち物やプレゼントをためらいなく処分できるという人は、やはり記念日にも執着がないのではないかと推測するのだが、どうだろうか。

今回のこの論にはけっこう自信があるぞ。