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2003年09月16日(火) 女性にはわからないこと

世の中には理解しようと努めてもどうにもむずかしい事柄というのがある。
たとえば、マラソン好きの人の気持ち。私はたいていのスポーツに対してはそれを趣味にする人がたくさんいることに疑問を持たない。自分はとくに感じないけれどなにか面白みがあるのだろうな、と想像することができる。
しかし、マラソンだけはわからない。走り終えた後の爽快感や達成感と、ゴールに到達するまでの間の苦しさを秤にかけたら、私の場合後者のほうが圧倒的に重くなる。
夫は毎秋十キロの市民マラソンに参加する人だ。先日などわざわざ札幌まで飛んでハーフマラソンを完走している。十二月には那覇でフルマラソンに挑戦するんだといまからはりきっているが、彼をかき立てているものがなんなのか私には皆目見当がつかない。
また、飛行機が全席禁煙になったために海外に行けなくなってしまったと嘆く知り合いがいる。ぜったいに吸えない状況に置かれてみたら案外乗り切れるんじゃないの?と思うのは浅はかな考えのようだ。禁煙のつらさならダイエットの苦しみと通じるものがありそうなのでわからなくはないけれど、たった半日やそこいらさえ我慢できないというのはやはり理解しがたいものがある。

遅めの夏休みを取っていたフリーターのA君と職場でひさしぶりに顔を合わせた。髪型が変わっていたので、「ま、男前になっちゃって」と声をかけると、彼がいつになく真剣な顔つきでこう言った。
「正直に言ってください。僕の髪、だんだん少なくなってきてると思いませんか」
なにを言い出すのかと思ったら。あなた、まだ二十一でしょう、そんなわけないじゃないの。
しかし、彼は最近シャンプーをするたびにぞっとするくらい髪が抜け、排水溝が三日で詰まる、風呂上がりに鏡を見ると以前より頭皮が目立つ気がする、と言い張る。
「僕、顔は母親似なんですけど体質が親父なんです。親父は二十代後半からきたって言ってましたから、冗談じゃないんです」
そう言われてみれば、いかにも柔らかそうなネコっ毛だ。彼はすらりと背が高くおしゃれにも余念がない、いまどきの男の子。コンビニのレジの女の子を見初め、会計の間にデートの約束を取りつけたことがあるというくらいだから、ルックスにもかなりの自信を持っている。だからなおさら気にかかるのだろう。うーんと黙り込んだ私を見て、彼は「やっぱり否定してくれない……」と肩を落とした。
そういえば、二、三日前の朝刊の読者投稿欄のテーマが「白髪」だったのだが、六十代の男性が(とうの昔に)失われし己の髪に対する哀愁と白髪への憧憬を語っていた。
テレビでマイク真木さんが白髪をポニーテールにしているのを見ては、「天は二物も三物も与えるものだな」とひがみ、若い女性に「ロマンスグレーという言葉はあるけど、ロマンスハゲはないですね」と言われてはしょげる。帰宅し、妻に「ショーン・コネリーはいまだに二枚目の役をやっているし、バッハもモーツァルトもかつらなんだぞ」と開き直れば、「才能のある人は髪なんて関係ないのよ」と返されてしまう。
ハゲることへの恐怖、薄毛のコンプレックスもまた、女の私には親身になることのできない事柄のひとつである。
これは女性にとってなにに相当する恐怖なのだろうと考えてみる。その切実さ、免れたい加減で言えば十キロ、いや、二十キロ太るのと同じくらいだろうか。
そうそう、私はつねづね思っていたのだけれど、女性にとっての「生涯ダイエットから解放されないこと」だって精神的には相当ヘビーなものがある。たしかにハゲる心配はしなくてよいが、レストランのメニューを見てなにが一番美味しそうかよりまずカロリーを思い浮かべてしまう切なさだって、男性にはわからないものだろう。
……と言ったら、「男だって太るのはイヤですもん。酒飲んだ次の日は一食抜いたりしますし」だって。
そういえば、少し前の日記に「日本の男性は女性の体型にうるさすぎる。だから、女の子がわれもわれもと痩せたがるのだ」というようなことを書いたら、「男だけど年中ダイエットを気にしてます」という内容のメールをいくつかいただいた。ある男性の日記で、「スタバのチョコレートケーキが食べてみたいけど、あとで後悔するのがわかっているから注文できない」とあるのを読んだときは、一緒なのねえ……と少々驚いたっけ。
私もときどき、無性に『ハードロックカフェ』のホームメイドブラウニーが食べたくなって難波まで飛んで行こうかと思うことがあるのだけれど、なかなか実行に移せない。特大サイズの焼きたてブラウニーに、大人のこぶしほどもあるアイスクリームがふた玉と生クリームがてんこもり。あれほど人を幸せにし、同時に悔やませる食べ物を私はほかに知らない。
人は禁煙に成功するととたんに喫煙者に厳しくなる、なんて話を聞くけれど、街におしゃれでスタイルのよい女性が増えるにつれ、男性も昔のように「体型なんて関係ないもんね」と安穏としていられなくなったのかもしれない。スタイルを気にするのは、もはや女の専売特許ではなくなっている。
遥かなるブラウニーに思いを馳せる私にA君が言う。
「でもね、そうやって自分の意志で食い止められることにはまだ救いがあるんです。ハゲとED、この悩みは女性にはぜったいわかりません」
なるほど、たしかにそうかもしれない。

【あとがき】
『ハードロックカフェ』のホームメイドブラウニーを知っていますか?焼きたてブラウニーの上でアイスクリームがほどよく溶けて、それはもう人を最高に幸せにしてくれるデザートなんです。たしかに量がものすごいということもあるけれど(三人前くらいある)、それ以上にカロリーが気になっていつもどうしても最後まで食べられない私。やはり太るのを気にして好物の甘いものを控えているとおっしゃる男性の日記書きさんとこんな約束をしているのですよ。「いつかお目にかかる機会があったら、その日はダイエットのことは忘れてホームメイドブラウニーを思いっきり味わいましょうね」と。ああ、あれを最後に食べたのはいつだったかしら……。