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2003年05月05日(月) 夫婦のあいだの個の領域

選挙に行った翌日のこと。夫が新聞を広げながら、朝食準備をしている私に声をかけた。
「ねえ、昨日誰に投票したの」
私は反射的に、どうしてそれを訊くのかと尋ねていた。「当選したかどうか見てあげようと思って」と彼は言い、私はしばらく迷ってから「あとで自分で見るからいい」と答えた。
以前から興味があった。世の夫婦というのは、互いが誰に投票したのかを把握しているものなんだろうか。もしかして、事前に「誰に入れようか」「そうねえ」なんて刷り合わせをしたりするのだろうか。
そんな夫婦がどのくらいいるのかは知らないが、結婚三年目の現時点では私はそういうのがピンとこない。何党の誰を支持するかといったことには、個人の考え方や価値観がもろに表れる。おおげさな言い方になるが、ウィークポイントというニュアンスではなく非常に重要という意味で、私にとって「急所」のように感じられる部分である。外でそういった話をしないのはもちろんだが、たとえ夫が相手でも考えなしに口にするのはためらわれる。
朝のあわただしい時間の中、名を挙げるにとどまってしまうことが私に回答を渋らせた。なぜその人にしたのかも話せない状況で、思考の先端だけをポイと投げ与えるようなことは気が進まなかったのだ。
なんでもフランクに話せる夫婦は素敵だし、そういうことについて意見を交わすのは理解を深め合うにつながる意義のあることだと思う。しかしながら、政治に関する話が私にとって気乗りしない話題の代表格であるのも事実。日記書きを二年半もつづけているくらいだから、私は話し好きで、人がなにを考えているのかにも興味があるほうだが、この分野に関しては別。きわめて個人的なことであるから、踏み込むのも踏み込まれるのも苦手だ。
見解の相違は価値観の違いからくるもので、どちらがよいも悪いも正しいも間違っているもない。よって、相手の考えを理解したいとか自分のそれを知ってもらおうという気がいまひとつ起こらない。夫がニュースを見ながらあーのこーの言ってくることはあるが、私は相槌を打つくらいで積極的にコメントすることはほとんどない。

夫婦でもこれは個の領域だ、と思う事柄はほかにもある。たとえば宗教。信仰を持つ持たない、なにを信仰するかといったことはパーソナリティを形成する根本的要素のひとつである。
夫と義理の両親に入信を勧められて困惑している友人がいるが、夫婦だから、家族だから宗教をお揃いにという考えには強い違和感を覚える。彼女にその気がないことを承知のうえで結婚したのではなかったのか。
夫婦というのは、独立した個体がふたつ寄り集まっている状態。それは「1+1」であって、「2」ではない。
子どもから見た親という立場では「2」というひとかたまりでありたいが、夫婦としては互いは別個の人間であるという前提のもと、違いを尊重する関係に憧れる。

【あとがき】
後日談です。このテキストにいただいたメールは意見が真っ二つに分かれていました。「政治観や宗教を共有できない相手とは夫婦なんかやっていられない」というものと、「夫婦にもプライバシーはある」というものと。宗教に関していえば、「それが異なると一緒に暮らせない。宗教はそんな甘いものじゃない」という意見もいただきましたが、異なる信仰を持つ者同士が結婚するわけがないことは自明の理でありますので、ここでもそういう前提で書いています。互いがその部分で相容れない(片方に信仰心がない)ことをわかっていながら結婚したのなら、相手に入信を迫るべきでないし、逆に信仰心のない方も相手が信仰を持ちつづけるのは認めてやらねばならない、ということを言いたいですね。互いのそれには不可侵という合意が取れない相手との結婚はむずかしいでしょう。