過去ログ一覧前回次回


2003年05月02日(金) 「がんばれ」ではなくて。

人を励ますのが苦手だ。
ふだん私たちが「○○するのが苦手」と言うとき、その苦手という言葉には本来の意味である「不得意」以外に、嫌悪の情が込められていることが多い。たとえば、「私は噂話が苦手です」「僕は団体行動をするのが苦手だ」にはそれを上手にできないという事実に加え、「したくないと思っている」という気持ちが表れている。
しかし、冒頭の一文に「好きじゃない」のニュアンスはない。「私はそれが下手」が意味するところのすべてだ。

私にとって、「励ます」は「応援する」とは別ものである。
ゼロを「元いた場所」「本来の自分」だとすると、プラスに転じようとする人の成功を祈るのが、応援。なんらかの理由でマイナスに転落した人がゼロを取り戻そうとするとき、その精神的な支えにならんとするのが、励まし。私はそんなふうに認識している。
応援は気が楽だ。たとえ挑戦に失敗しても、彼はゼロ地点に戻るだけ。こちらに「私がついていてあげなくては」という切迫感や悲壮感はあまりない。
私が苦手なのは、励まし。なぜならこれを試みるときほど自分の無力さを思い知らされる瞬間はないからだ。
誰かから痛みを分けてもらうことはできない。血を分けた親きょうだいであっても、生涯をともにせんとするパートナーであっても。大切な人が泣いていれば、私も泣く。しかし、それは同じ苦しみを味わってのことではない。苦悩の中にいるその人を不憫に思うからだ。楽にしてあげるすべがないのがつらいからだ。自分の不甲斐なさに涙するのである。
むかしから思っていた。励ましの言葉というのはどうしてこんなにレパートリーが少ないんだろう、と。「力になるよ」などという曖昧なものでなく、相手の心に活力を送り込むような言葉。私にはやっぱり「がんばれ」以外、思い浮かばない。
じゃあこんなときはどうしたらいいんだろう。
「あなたは十分過ぎるほどがんばっている。もうめいいっぱいなんだよね、わかってるよ。これ以上がんばれなんて私にはとても言えない。、言いたくない」
こういうときに使いものになる言葉が私の引き出しにはない。日々これだけ言葉をこねくりまわしているというのに。
「本当はこれ以上無理をさせたくない。でも歯を食いしばって耐えて。なんとか乗りきってほしい」
この心情を伝えてくれる言葉を、私はいま探している。
その一方で、憔悴しきっている人にはどんな言葉も意味を為さないことを理解している。
「私がついてるから、だいじょうぶ」
こんなものはなんの救いももたらさない。もしその言葉に救われたような気になる人がいるとすれば、口にした本人だけだ。黙って見ているのがつらいばかりになにか言いたいという欲求を満たせたから。「私がここにいることをわかっておいてね」をとりあえず表明できたから。どん底にいる人にとっては、誰がそばにいようがいまいが、現実の痛みの強さが変わるわけではないのに。気休めにもならない言葉に「ありがとう」を言わされることが、その人にとってはエネルギーの空費であるかもしれないのに。
結局、相手から求められるまで待つことしかないのだろうか。目の前で溺れているその人を水の中から引き上げることができない無力感にさいなまれながら。どうして助けてと手を伸ばしてくれないのと苛立ちさえ覚えながら。
それが岸にいる人間にできる唯一の苦悩の共有なのかもしれない。

【あとがき】
肝心のとき、人はひとりになる。自分を立ち上がらせるのは、そこから這い上がらせるのは誰のどんな言葉でもない。あてにできるのは己の精神力だけ。私はたくましい人間になりたい。