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2003年04月06日(日) 最後の恋

思うところあって、過去ここにアップしたすべてのテキストのタイトル一覧を作った。
二年と四ヶ月のあいだに四百三十八本。「へえ、このときこんなこと考えてたんだ」「はずかしげもなくよくこんなの書けたね」なんていちいち立ち止まりながらの作業はかなりの手間と時間を要したが、午前中になんとか完了。
さて、できあがったばかりのリストを眺めていた私はあることに気づき、愕然とした。取りあげる話題に大変な偏りがあることがわかったからである。
実に三本に一本ぐらいの割合で、私は愛だの恋だの男だの女だのの話を書いていた。現に今月は四本中四本がそうだ。
こちら方面の話が多いという自覚はもちろんあったが、これほどまでとは思っておらず驚いた。
恋愛は独身時代の私にとって最大のライフワークであったが、結婚したからといって「じゃあ今日から興味喪失」というようなものではなかったのだ。人妻となった今でも、やっぱり私は“こいばな”が好きだ。

こんな私のもとにはオン・オフ問わず、友人から恋の相談がしばしば舞い込む。
金曜の夕方、会社の休憩室で一服していると(たばこじゃない、お茶だ)、A君がやってきた。彼は二十一歳のフリーター。すらりと背が高く髪型も服装もおしゃれな、見るからに今どきの男の子。「私がこの年の頃はもうちょっとしっかりしていたよなあ」とつい思ってしまうくらいおぼこくてハングリーさにも欠けるのだが、人懐こいのがかわいらしい。
「ねえさん。やっぱりだめになっちゃいました」
彼は私のことを「ねえさん」と呼ぶ。昔からどういうわけか、年下の女の子からそう呼ばれることが多かったのだが、男の子から呼ばれるのはなんとも色気のない話である。が、年が十も違うのだからしかたないか。
で、何が「やっぱりだめだった」のかというと、つきあっていた女の子とのこと。他に好きな人ができたと告げられ、彼はひと月ほど思い悩んでいたのだけれど、その決着が着いたということであった。
「こんなに誰かを好きになることはもうないような気がする。最後の恋かもしれない」
彼がポツリつぶやく。
私も二十代の初めに大きな失恋を経験した。あのときは「あんな人とはもう二度と出会えない」と本気で思い、三ヶ月間はなにを見ても涙をあふれさせた。だから、彼の気持ちは本当によくわかる。
しかし、だてに十年彼より長く生きているわけではない。私はその後、知ったのだ。終わった恋を上書きしてくれる恋には必ず出会えるということを。この世の出会いはすべて必然。出会うべき人と出会い、結ばれるべき人と結ばれるようになっている。だから何も心配することはないのだ、ということを。
「なに情けないこと言ってんの、まだ二十一でしょ。少なく見積もってもあと十年は恋愛できるじゃない。彼女を超えてくれる人にもぜったいに出会えるから心配しなさんな」
これは気休めや希望的観測などではない。確信だ。
いまは信じられなくていい。だけど、「小町さんの言うとおりだった」と笑って思い出せるときが必ずくる。そう遠くない未来に。

今日の大阪は絶好の行楽日和。晴れ渡った空に柔らかい日差しの中、夫と近くの公園に花見に出かけた。
芝生の上に腰を下ろし、お弁当を食べながら水場で遊ぶ小さな子どもたちを眺めていたら、ふとA君の問いかけが胸によみがえってきた。
「ねえさんの最後の恋っていつですか」
思わずどきり。だって、初恋はいつかと尋ねられることはあっても「最後の恋は?」なんて初めてだったんだもの。
あの頃、天気予報はいつもその人の暮らす街の分もチェックしていたことを思い出す。同じであれば「太陽はひとつ。空はつながってる」と勇気づけられ、違っていればどうしようもない距離にせつなさを募らせたっけ。
時が流れても折に触れ思い出すのは、一番記憶に新しい恋だから……ではないと思う。
今日、かの地は晴れていたのだろうか。春の日差しを浴びながら、彼も満開の桜を眺めたのだろうか。家族とともに。

【あとがき】
きっと誰にも収まるべきところ……そう、「居場所」がある。人生は各人が落ち着くべきところに落ち着けるようにちゃんとできているのだ。自分がいまそこにいるのは、「そこにいる意味があるから」に他ならない。私は私の人生が自分にとって最高のものになることを信じて疑わない。