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2002年12月13日(金) 捨てられない

毎年この時期になると必ずかかってくる一本の電話がある。実家の母からの「今年こそなんとかしてちょうだいよっ。納戸の中のアレ!」というやつだ。
実家の納戸には、私以外の人間が触れることを禁じた開かずのダンボール箱がある。箱の表には娘の文字で「開けるべからず」と大きくマジックペン書きされている。
「ハイハイ、今度帰ったときにやります、やります」
そう言ってとりあえずその場をしのぐのも年の瀬のならいである。

さて、他の人はどうしているんだろうと私が常々疑問に思っているのが、失恋したときにその恋を過去のものにするために行う“儀式”だ。
別れた恋人が残した思い出の品々を人はいったいどうしているのだろう。もらったプレゼントは返すという律儀な人もいれば、一切合切捨てる人もいるだろう。写真や手紙を焼く人もいるかもしれない。いずれにせよ、なんらかの形で処分している人が多いのではないか。友人に訊いても、指輪や時計といったそれ単体で価値のある品は除き、いさぎよく捨ててしまうという意見が多かった。
では、私はというと。これがまた捨てられないのである。われながら情けなくなるほどに。
彼がお気に入りだったプロレスラーのポスター。「景観が壊れる」と部屋に貼るのはだめだと言ったら、彼はトイレのドアの内側に貼りつけた。別れた後も私は長いことそれを剥がすことができなかった。便器に腰かけ、ファイティングポーズを取るムチムチ男と目が合うたび、センチメンタルな気分になったものである。
また、ツーショット写真で作ったテレホンカード。私たちはそれを財布に入れ、お守りのように持ち歩いた。あれから八年経ったいまでも、私は幸せだった日々の証として大切に保管している。
しかし、あるとき彼にそれをどうしたかと尋ねたところ、
「とうに使ったで。ちょうどおまえのおでこに穴が開いて、笑ってもうた」
と無邪気に言われ、私はすっかり傷ついてしまった。
もともと私はものを捨てるのがとても下手なのだ。「いつか必要になるかも」「捨てるのはいつでも捨てられる」と思ってしまうので、読まなくなった本も着なくなった服もなかなか処分することができない。
しかし、私が捨てられないのはものだけではなくて。思い出をいつまでも原型そのままに残しておきたいという気持ちもとても強い。
私が無類の記録好きだという話は以前にもしたことがあるが、旅先から自分に絵ハガキを送るのも、それは気合を入れてアルバムを仕上げるのも、中学時代から欠かさず日記をつけているのも、すべてはこの性分ゆえ。そんな私がどうして好きだった人の形見の品を捨てることができようか。
「いつか彼のことを笑って話せるようになったとき、思い出に浸りたくなることがあるかもしれない」
だけど、それらを手元に置いておくのはつらすぎる。そこで私は失恋するたび、ダンボール箱に思い出の品を詰め、実家に送ることにした。
それがいまもなお実家の納戸に天高く(ってこともないか)積みあげられているのである……。

さて、私はいま頭を抱えている。サイト用にYahoo!メールを使用しているのだが、「まもなくメールボックスの保存容量に達します。古いメールを削除してください」というメッセージが届いたのだ。
このサイトを始めて二年と少し。いただいたメールは二千六百四十九通、百七十二人の方とお話しすることができた(こういう数字が即座に出てくるのが私の記録好きたる所以)。
見知らぬ人と“文通”がしたくて始めたインターネットだったが、こんなにたくさんの人と知り合えるとは。
しかし困った。私がなにを捨てられないって、手紙ほど大切にしているものはないからだ。
恋の現役時代、私は自分がパソコンを持っていなかったことをつくづくラッキーだったと思っている。たとえどんな別れであったとしても、彼とやりとりした何百通ものメールを私は削除することはできないだろう。いつまでもいじいじと読み返しては涙していたかもしれないのだ。
いやいや、いまはそんなことより満杯のメールボックスをどうするか。うーん、まいった。削除できるメールなんか本当にひとつもないんだってば。

【あとがき】
彼が部屋に残していった本やCDといったものはまだ「もの」という感じがするけれど、衣類やライターなんていうのは「彼そのもの」。それに写真や手紙といったものも絶対の絶対に捨てられないな。
開かずのダンボール箱、今年もきっと処分できないでしょう。