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2002年07月10日(水) 「ありがとう」

七月に入ってから、某百貨店の中元ギフトお問い合わせセンターで仕事をしている。
ひとり一台ずつ電話とパソコンを与えられ、中元を注文したお客様や受け取った方からの電話での問い合わせに応対する業務なのだが、これがけっこうおもしろい。
女性がズラリ並んで仕事をしているさまは壮観だし、「さっきのお客さん、先方が亡くなってたから注文をキャンセルしてほしいって」
「そんなことも把握してないような間柄の人にも贈るんやねえ。気持ちもなにもこもってないね」
なんて電話の合い間にちょこちょこと交わす会話も楽しい。
さて、電話はひっきりなしにかかってきて、問い合わせの内容も多岐に渡るのだが、圧倒的に多いのが依頼主からの「先方から届いたという連絡が来ない。到着しているか調べてほしい」というものである。
パソコンに伝票ナンバーを入力すればその荷物がいまどこにあるかがわかるようになっているのだが、すでに先方に届いている場合がほとんどだ。
「お待たせいたしました。○○様には七月一日にお届けにあがっております」
すると、電話口の人はきまって一瞬押し黙る。
「……ほんとに?向こうからは何も言ってこないんだけど」
「はい、お認めのサインもいただいております(認め印の画像もパソコン上でみられるのだ)ので、たしかにお届けは完了しております」
「そう、わかりました……」
一日に何十本も受ける電話のうち半分以上がこのやりとり。そのたび、電話の向こうのため息が伝わってくる。今日など「一週間経つのにいまだにお礼を言ってこないなんて非常識じゃないか」と十五分も愚痴を聞かされてしまった。
そりゃあ腹も立つわなあ、「産地直送・特選天然黒まぐろ大トロセット(三万円)」を贈って無のつぶてじゃあ。
私なんて以前、喫茶店を開いた友人にちょっと奮発してお祝いを贈ったところ、「ありがとう。うれしかった」と短いメールで返ってきて軽くがっかりしたくらいだから、その憤りの気持ちはよくわかる。

なにかを贈られてお礼も言わずに平気でいられるのはかなり特殊な人にちがいないが、日常生活に目をやると、誰かからちょっとした好意や親切を受けてもとくになんとも思わない人は意外といることに気づく。
たとえば人に道を教えて、「ありがとう」まで聞けることは少ない。たいていは「あ、そうですか」とひとり納得して去って行く。ひどいのになると、説明している途中で見当がつくや、少し離れたところで待っている連れのところに駆け出して行く。
「礼を言わんかい」という話ではなく、ただただ不思議なのだ。人になにかを頼んだり、自分のために誰かの手を煩わせたりしたときに、「ありがとう」が自然に出てこないのが。店で会計を済ませたとき、外で食事中に水を注いでもらったとき、バスを降りるとき。こっちは金を払ってサービスを買っているんだ、なんてそのときは考えないし、黙りこくっているのは“手持ち無沙汰”な気さえする。
「ありがとう」は、人がそれを言うに値するようなことが自分の身に起こったと認識して初めて、口の端にのぼる。
ふたりの人間がまったく同じ一日を送ったとして、一方は他人の好意に敏感で、“小さな感謝”をいくつも集め、もう一方はなにを感じることもなく通り過ぎてしまうとするならば、前者のほうが明らかに喜びが多いわけで。これを一生の単位で考えたら、両者のあいだにはかなりの差が出るのではないか。
だから、「すみません」なんていう使い回しのきく便利な言葉もあるけれど、私は「ありがとう」のかわりには使わないようにしている。

【あとがき】
私はいただいたメールの99%に返事を書かせてもらっています。その内容がうれしいものであれ耳の痛いものであれ、この人は私になにかを伝えたいと思って(まじめに)キーボードを叩いてくれたんだなと思えるものに対しては、こちらも気持ちを伝えたいのです。つまり、残りの1%はそれが感じられなかった特殊なものということね。