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2002年06月26日(水) すべては起こるべくして

芥川龍之介は人生を、一箱のマッチ箱に似ていると言った。「重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である」と。
未来というものがいまこの瞬間が積み重なってできたものであるように、人生は「必然」という名の細胞の集合体である------私はそんなふうに考えている。
どの両親のもとに生まれ落ちるか、将来誰と結ばれるかといった一大事だけでなく、いまその足を右から踏み出すか左から踏み出すか、そんな瑣末な事柄のタイミングさえも実は不思議な力でコントロールされているのではないか。
多くの人は身に起こった出来事を自分の意志で選択した、さもなくばたまたまそうなったのだと考えるようだけれど、本当は「運命」という名の人生計画書に導かれているだけなのではないのだろうか、と。
「運命は努力や意志で変えられる」と言う人もいる。でも私はそうは思わない。たとえば、ある人に「あそこで頑張ったから、僕の人生は変わった」と振り返る大きな転機があるとするならば、それはあらかじめ彼の人生にその時点から努力をスタートするというタイマー設定がなされていたからという気がするのだ。
私のイメージでは、人間というのは小川のせせらぎに舞い落ちた一枚の木の葉のようなもの。大海にたどり着くのか、途中で岸に打ち上げられるのか、川の藻屑となって土に返るのか。それは川の流れ次第であり、それに抗ったり行く先を選んだりする力は木の葉にはない。もしかしたら彼ら自身は「僕は海ってものを一度見てみたかったんだ」とか「長旅に疲れたから、岸に上がってひと休み中」という具合に、自分の意志でいまいる場所を選んだのだと思っているかもしれないけれど。
その抗うことのできない身を任せるしかない川の流れこそが、人の運命にあたるものなのではないかと私は思う。
それは「どうせすべて決まっているんだから」というあきらめや投げやりな気持ちではない。「人生はなるようになるんだから大丈夫」という楽観である。日々を真剣に大切に生きていれば、自分が行くべき場所に必ず運ばれる。そしてその場所は自分にとって悪いところであるはずがない。私はそう信じている。
「どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの」
「こんなふうに別れるなら、どうして出会ったの」
そんなふうに泣いた記憶は誰にもあるだろう。
しかし、五年十年経つうちに心の片隅にたえずあった小さなもやがさーっと晴れていく瞬間が私には訪れた。「そうだったのか……!」と謎が解き明かされる瞬間が必ずやってきた。そして、これからもきっとそうだ。
どこかしらに運ばれた木の葉が「これが僕の運命だった」と思うことはないかもしれない。けれど、「あの悲しい出来事はいまこの瞬間をもたらすために自分には必要だったんだ」ということに、点と点が結びつく瞬間に、私はちゃんと気づきたい。
どうしてそれが起こったのか。明日わかることもあれば、結局わからないまま終わることもあるだろう。でも、私はひとつでも多くの“理由”に出会いたい。
人生に偶然はない。すべては起こるべくして起こる。
私の身に起きる一切の出来事は、必ず説明のつくものであるはずだ。

【あとがき】
私は自分が幸せにならないはずがないと信じていて、というか自信を持っているのです。そのときはどんなにつらく悲しい思いをしたとしても、「これは必ず未来につながるステップになる。私には必要な出来事だったから起こったんだ」と自分に言い聞かせます。こうすることで、前向きな自分でいられるような気もします。宗教とか神様とかは信じていない私だけれど、「運命」というものの存在は信じています。