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金曜日は集団下校だった。これは予定としてあった物である。 ただ前日の木曜日まで集団下校(低学年のみ)になるとは先生方も暑い中 全く大変な事だった。うちから通学路がモロに見えるのだが、先生の手を 振り払い 脱出した子供も居た。いや全く、大変な事だ。 この日を集団下校にさせた張本人は隣りの区に住む30歳の男であったらしい。 きっとひどく叱られる事だろう。30歳と言う辺りで 容赦はないと見た。 だがまあ、危ない人には気を付けようと言う事で 子供らの寄り道も少しは 減る事だろう。いや、甘いか。減らないね。
金曜日、集団下校の時、子供達の間から ずっと泣き声が聞こえていた。 泣き声は我が家に向かって近付いて来る。息子の声とは少し違うかな と 思ったが、誰も泣いていない時に泣いている様な子供なので、やはり 息子なのだろうかと 私は考えていた。だが、迎えに出るのも躊躇われる。 ドアホンが鳴って出てみると 幾分日に焼けた息子が立っていた。 「今泣いていたの、あんたじゃなかったの?」 「オレは泣いてない」 非常に不本意と言う感じの声を出された。 「泣いてたのはMちゃん。転んで口から血が出た」 数軒先の女の子だ。あらら、それなら迎えに出て家まで連れてってあげれば 良かった。何故か息子だと思ったので、出られなくなってしまったのだ。 「私はてっきり、あんたが泣いているのだと」 「オレのランドセルは黒いから」 息子が突然 背負ったランドセルをこちらに 向ける。交通安全のビニールがかかっているので、それは黄色かった。 「黒いから?」 「ランドセルが黒い子は男の子だから泣かない。鼻血を出しても笑ってる」 後半は息子の創作であると思われる。だが前半は、息子が一人で思い付くとは 何だか思えない。 「そ〜だね〜、男の子だもんね〜。でも本当に痛い時は 泣いていいんだよ。まあ 泣くよね〜、黙ってても」 そんな事を言いながら、誰が黒いランドセルの話を息子にしたのかな?と 私は考えていた。
家族の者は全員心当たりがないと言う。確かに、うちの家族はここまで簡潔で 効果的な物言いをしないんである。「学校で先生に言われたんじゃないの?」と母。 「違うんじゃないかな〜。先生はそう言う言い方、今はしないんじゃないの?」 黒いランドセル=男の子 は泣かない。 何か最近とみに言われるジェンダーな言いっぷりと言えよう。 だから、学校では指導として使わなくなって来ているのではないだろうか。
男は男らしく女は女らしく。と言う社会的性差を受けて成長の際に傷付けられ 大人になっても違和感の中生きていると言う人の話を幾つか見聞きした。 学校教育の場でも、ジェンダーについてはかなり慎重に扱われるように なって来ているらしい。 「男の腐ったの」「女の腐ったの」と言うのは男女がどうというよりは 「腐ったの」がまず良くない。これは なんか判る。 だが、『男だから』『女だから』と言う物が全て無くなってしまって良いのか と言うと、社会的性差が肉体的性差と無関係な物ばかりとは言えないだけに 難しい所であると思う。
「男なんだから」を私は良く使う。「男だろう」も使う。 「男の子だから、いいんだよ」は使わない。叱る時ばかりに使ってしまう 訳なのだが、やはりもう心底「男なんだからっ」と思うから言っちゃうのだ。
「ちんちんは何のために付いているのだ」 「おしっこをするため」 「そうだった」 大きくなったら、毛が生えて、身体も立派になる事だろう。 遺伝的要素を考えれば、かなり大柄な がっしりとした男になるはずである。 力も強くなる事だろう。心も強くあって欲しい。刷り込まれるように覚えて 欲しいと言う思いがあるのだ。「男だったら強くあれ」 だが、それが傷となる事までは 余り考えられない親だ。
私には娘は居ないが、いたらこう言ってそうだ。 「女だったら賢くあれ」 いや、男は馬鹿でも良いと言う事ではないです。自身が生きて来た実感と して娘がいたら言っておきたいと。 自分が賢くないんで苦労したんで。
社会的性差と言われるとぼんやりした答えしか出来ないが 強い男と賢い女。格好良いではないですか、そうは思うんだよね。
黒いランドセルの事を誰と話したのか寝しなに息子に聞いたが「忘れた」と言われた。 本当は忘れていないのか、やっぱり忘れたのか。言われた事だけ覚えていれば まあ いいよ。
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