せらび
c'est la vie
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みぃ


2004年10月20日(水) やっとこさ掃除と洗濯を済ませたけれどなんだか頭痛がする今日一日

辛気臭いハナシが続いてしまったが、良いこともあったので、今度こそそれを書こうではないか。

ふらふらと惰性で転がっている頃、思い余っていくつかの自己啓発的活動に精を出していた。それは例えば本来業務と無関係な本を読んだりだとか、公園を散歩したりだとか、ヨガレッスンに通ったりだとか、アロマセラピーの講習に通ったりだとか、そういったことだ。特に公園にはイヌ用の区画地域があって、飼い主がそれぞれ持ち寄ったイヌたちを存分に走らせている「ついで」に、各々と交流を楽しんだりするのだが、イヌ無しのワタシはそれでもめげることなくイヌたちとその飼い主たちのそれぞれの交流振りを眺めては、何とはなしに穏やかな気分を楽しんでいた。他愛も無いイヌたちの戯れをぼんやりと眺めているのは、なんと心地よいのだろう。

そう、ワタシは数頭のイヌたちと育ったのである。そういうとなんだかほのぼのするでしょ?うふふ。

そういうワケで貰い子のワタシには兄弟姉妹がない。不平を訴えているうちに、更なる厄介者の制作を断念したと思われる両親がある日、どこぞで一頭のイヌを見繕ってきた。この若いイヌは、元の飼い主から呼ばれていた名前で新たな飼い主一家からも呼ばれることになるのだけれど、敢えてそれは明かさないで置く。なぜかというと、それはいかにも近頃閉刊したとの噂の長年続いた同性愛雑誌にて好まれた名前のようで、ちょっと気恥ずかしいから。もしくは大御所演歌歌手の愛称、と言ったらもうご理解いただけるだろうか。まだご存命中であることを祈る。(そういう動向にはとんと疎くなってしまうのが、海外生活の難ではある。)

とにかくそのイヌは、以来ワタシの「弟」となった。ちゃんと世話をするんだぞ、と暴力親父から半ば脅されながら手に入れた「弟」であるから、小さいワタシは良くその世話に励んだ。そうして我ら「姉弟」の幸せな日々がしばらく続いた。

ある日のこと、学校から帰ったワタシは、いつものように「弟」に声をかけようと裏へ回ると、見慣れぬイヌが傍らにいるのを発見した。驚いて家へ上がると、家人から今度は「妹」が来たのだと知らされる。ワタシの朝晩の日課である散歩は、少しばかり負担が増えたけれども、まあ良かろうと受け流す。やったことのある人はご存知だろうけれど、二匹のイヌをいちどきに散歩に連れて行くというのは、随分骨が折れる。あっちへうろうろこっちへうろうろ。一方の糞の世話をしているうちにもう一方でも作業が増えていたりして、まぁ難儀である。しかし若さゆえ、小さいワタシは日々彼らとの交流を愉しんでいた。

それから更にしばらくして、今度はもうひとり「妹」が増えていた。

ここへ来て、幼いワタシもいい加減に事態が飲み込めてきた。親父は「弟」を入手した際に、それが「血統書付き」であると言うことを、盛んに強調していた。彼は何しろ劣等感の強い人であるから、恐らくそういった権威的なモノに目が無かったのだろう。しかしその後やって来た「妹たち」も、多分に漏れず「血統書付き」だったのだから、目論みはもう明らかだった。ともかく幼いワタシは、以来三頭の「弟妹」の世話をするという負担を負うことになったわけで、しかしそれはワタシが本来望んだ事とは違うのだと主張したのだが、到底聞き入れられなかった。

当時は、柴犬が流行していた。

そして幼いワタシには、突然目の前に現れた「一夫多妻制」が許せなかった。

以来ワタシは「弟妹」の世話を一切拒否した。

初めのうちは親父も渋々世話をしていたのだが、そのうちさすがに面倒になったようだ。ある日のこと、学校から帰ると、なんとか工務店と書かれた車が家の前に止まっていた。近所の小母さんが、いいわねぇみぃちゃんは、お勉強部屋を作ってもらえるのねぇ、と声を掛けた。そんなハナシは聞いてませんケド、と答えつつ裏の駐車場付近を見ると、そこには六畳ほどのプレハブ小屋が出来上がりつつあった。両親はそこに、座敷に設置されていたはずのエアコンを移動し犬用のケージをいくつか置いて、「犬小屋」を作ったのだ。

そしてそれは、当時のワタシの自室より広かった。

とはいえ、犬たちはそこで殆どの時間、ケージに閉じ込められていた。朝晩両親のどちらかがえさと水を与えるついでにケージから出し、ケージ内の糞便を始末している間にその辺りをうろうろする程度の運動が関の山、という状態で飼われていたようだ。ワタシはそのことに大いに腹を立て、更に両親を軽蔑するようになった。

数年の間に、その小屋の中では、ワタシの知らない「弟妹」が各種六匹に増えていた。元々の柴犬に加えて、当時流行り始めていたシェットランドシープドッグという種類の犬たちが増えていたのだ。困ったことに、彼らにはいつの間にやらテレビで見かけるアイドル歌手らの名前が付けられていた。さすがにそれでは、家庭内での会話もなにやら違和感があった。今にしてその名前らを思い出してみるにつけ、当時の流行がしみじみと偲ばれる。彼らは今頃一体どうしているのだろう。ご存命中であることを祈る。

とはいえワタシは当時、まだ弟妹への未練があって、ぜひとも「営利目的で無い兄弟」が欲しいとねだり続けていた。それが効いたのかどうか、そのうちにもう一匹、ヨークシャーテリアが加えられた。これは小さいので、時折自宅へ連れて来られていたが、ワタシは家人がまた不釣合いな名前をつける前に、「ローマの休日」のヘップバーン様から頂いて、「アン」と名付けた。髪型なども申し分なかった。ワタシはその小さい「妹」を、格別気に入っていた。

ある歳の冬、その地には珍しく大雪が降った。その日ワタシは、母と共に私立高校の面接に出掛けていて、帰宅した頃にはすっかり雪が積もっていた。帰宅後、母がプレハブ犬小屋にえさと水をやりに出向いたところ、なんとエアコンが作動していなかったそうだ。嫌な予感がした。いつもは立ち入らない犬小屋に向かうと、一番小さい「妹」が既に固くなっていたと母が言う。可哀相な事をしたねぇ、でも仕様がないね。彼女はナースなので、こういうことに対する免疫が出来ているのか、割合あっさりと言った。

我ら家族は、それから何年かして引越しをした。その頃には、何度か入れ替わった末に残っていた、メスの柴犬と気の弱いメスのシェルティーの二匹きりになっていた。ワタシもそのうち実家を出て暮らすようになったので、たまに帰るとその気弱なシェルティーは盛んに吠え立てた。無理もない。彼女がうちに来た頃には、ワタシは彼らの世話には関与していなかったから、殆ど見かけたことのない人間なのだ。結局新居でもケージに閉じ込められていたが、その頃には親父は全く世話をせず、母が辛うじてえさや水を与え、ケージの掃除をしていた。そして時には辺りを連れ歩こうと試みたようだが、特に気弱な方のイヌは、ずっとケージで育った為に外を怖がって、なかなか敷地内から出ようとしなかったそうだ。それでも両親は、一泊以上の旅行をする際には、二匹のイヌを連れて出掛けていた。

そのうちワタシは更に実家から遠く離れた彼方で暮らすようになったので、当分そのイヌたちのことを忘れていた。

ある歳、友人の結婚式に出るということで帰国の機会があって、実家に電話をした。母は何か勿体付けた物言いで、極めて不自然だった。しつこく問い質すと、言わなかったけれどイヌが死んでしまったのよと言った。彼女は、動揺させるといけないと思ったので当分言わなかったのだと言い訳した。

ワタシは意外に思った。付き合いも浅くそれほど愛着の無かったイヌたちが死んだことで、どうしてワタシが動揺するだろうか。後からよりはっきりと認識するのだけれど、これは母お得意の言い訳である。「そういうこと」にして、ワタシに長らく連絡をしないでいたのだ。だからワタシがどんな用件があっていくら電話をしようとも、緊急の要件があるからと留守番電話にメッセージを残して折り返し連絡をくれるよう頼んでも、切羽詰ってファックスを送っても、それまで返事が来た例がなかったのだ。いくら捨て子でも、もうちょっと何とかならないのか。

ワタシは母の言い分を遠くで聞きながら、イヌたちはせめて成仏してくれたろうかと思った。

・・・

(はっ・・・なんだか楽しいハナシにならなかったみたい・・・)

思い出す事などを書き連ねているうちに、色々と思い出してくるものだね。


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