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■ ゲッセマネの祈り
教会の礼拝はマルコ14章
「ゲッセマネの祈り」でした。
受難週、イースターに向けて聖書の場面を
追って行くようです。
十字架を前にして、イエス様は深く恐れもだえられ
この祈りをささげました。
イエス様は神様だから、十字架刑も何ともない。
という訳では無かったのです。
神であると同時に、私たちと同じ肉体を持って生まれて
来られましたから、同じように痛みを感じられます。
あのむごい刑が痛くないはずがありません。
また、罪を犯したことのない方が、
人の代わりに罪人となって
父なる神から、罰を受け取るという恐怖は
私たちには想像することもできません。
最も信頼する父から御顔が背けられる恐ろしさは
どんなにか恐ろしかったことでしょう。
イエス様はゲッセマネの園で、何度も祈りました。
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことは
ありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけて
ください。しかし、わたしの願うことではなく、
あなたのみこころのままを、なさってください。」
(14:36)
牧師は、この祈りは3つに分けられると言いました。
まず信頼。「あなたにできないことはひとつもない」
という信仰。
二つめは、率直な願い。「この杯をわたしから
取りのけてください。」
三つ目は神にゆだねること。「しかし、わたしの願う
ところではなく、あなたのみこころのままをなさって
ください。」
私たちの祈りも、「願い」だけで終わらせず、
何でもできる神様だと信じ、願い、そして結果は
神様にお任せすることが言われました。
神様は何でもできる方だけれど、祈ったとおりには
ならないことがある。
でも、できるのになさらないのには、「神様のお考え」
があるということを信じる。
そしてそれが最善である。
ということ。
イエス様も十字架を前にして、
罪を犯したことがないからこそ、父から顔を背けられる
ことへの恐怖を訴えました。
率直にできるならこの杯を取りのけてください。と。
しかし、「神様の最善」は、
イエス様の前から杯を取りのけることではなく、
我が子にこの憤りの呪いの杯を飲み干すように。
ということでした。
それが神様のみこころ。
それしか人を救う方法はない。
イエス様は祈り終えられると、御顔をまっすぐに向け
この父のみこころ、十字架へと向かって行かれました。
人は何をしても罪人、義を行なっているつもりでも
神様の目からは「不潔な着物」(イザヤ64:6)でしかなく、
燃えさかる炭火の上に、犠牲とされる罪のための小羊は、
神ご自身の傷の無い小羊。
それより他には、救いの道はないのです。
この十字架は、もうすでに歴史の中に成就しました。
イエス様がすでに罪を負って、私たちのために死んでくださいました。
あとは、
この与えらえた神の小羊を信じるか、
それとも払いのけてしまうのか。
道は二つにひとつしかありません。
2023年03月05日(日)
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